玉城ティナ。名前と顔だけは知ってはいても、よくは知らない人だった。が最近、読書家だということを知った。

 検索すると、『玉城ティナ「哲学書にハマる理由」を語る 蔵書は壁一面に数百冊』(NEWSポストセブン)『玉城ティナ、読書は「女友達の代わり」? お気に入りの4冊とは』(ananweb)を発見。

 前者の記事では、なんと「ジル・ドゥルーズ」と「フェリックス・ガタリ」の名前が出てくるではないか。僕と同世代の読書家ならご存じであろう、あの「ドゥルーズ=ガタリ」である。

 僕がちょうど大学生のころ、浅田彰の『構造と力』(勁草書房、1983年)や『逃走論──スキゾ・キッズの冒険』(筑摩書房、1984年)がベストセラーになり、フランス現代思想(主にポスト構造主義)を軸とするニュー・アカデミズムと呼ばれるブームがあった。フーコーやデリダとともに、その中心にいたのがドゥルーズ=ガタリだった。

 その流れで20代の僕は、柄谷行人や蓮實重彦の著作を読み漁り、一段も二段も上から世の中を見下ろしていたと思う。自分の言葉ではなく、他人の言葉を借りて自惚れているような頭の悪い生意気な人間だった。

 そんな僕と違って、玉城ティナは賢い若者だ。ananのインタビューで、自身の言葉について大切にしていることを聞かれ、こう答えている。

「かっこつけないことですね。頑張りすぎている文章って、『自分の言葉じゃないな』と思われたりしますし、作られた言葉でないほうが相手の心に届くような気がしています。全部が真実である必要はないけれど、核となる言葉はなるべくシンプルで嘘がないほうがいい。私自身、そういう文章をこれからも書いていきたいなと思います」

 すばらしい。これが、自分の言葉で“書く”ときの極意だと思う。(DD)