先日、編集部で話が弾んでしまい、地元駅までの終電をうっかり逃してしまいました。

 とりあえず渋谷まで出てタクシーで帰るか、近くのホテルに泊まるか、漫画喫茶かカラオケボックスかスーパー銭湯で朝が来るのを待つか。その前にめちゃくちゃお腹が空いたからなにか食べたい。でも深夜0時の銀座の店はほぼやってない。この時間帯でもやっているところ……渋谷や新宿はめんどくさい……そうだ、高田馬場に行こう。

 ということで、駅のシャッターがすべて降りる前に、馬場爆着。駅前のロータリーは浮き足立った学生や新卒風のサラリーマン、やんちゃなお兄ちゃんたちでガヤガヤしていて、いつ来てもまったくなんにも変わっていない風景に安心感。

 足早に漢(おとこ)ばかりの日高屋に入って「ラーメン・餃子・チャーハンセット」を頼み、軽く腹ごしらえしたところで、意味もなく深夜の馬場歩き(高田馬場~早稲田間を歩くこと)をしました。

 ここは午前1時を回ってもちらほら明かりが灯っているし、なじみもあるからか怖さを感じない。路面のケバブ屋はガンガンやっていて中国人をもてなし、スキンヘッドの黒人は電話越しにまくしたて、東西線の地上出口あたりには白人が座り込んでビデオ通話している。馬場の異国感って渋谷や新宿とはまた違った趣があって、なんかいいんですよね。

 とはいえ疲れた足はAOKIあたりで引き返し、午前2時、なんとはなしにカラオケ館へ。このご時世になってすっかり足が遠のいてしまっていましたが、周りの部屋の絶叫に負けじと歌いに歌いました。

 あと、最近はカラオケボックスでアーティストのライブ映像が大音量でギンギンの照明で観られるんですね。CMで耳に残った秦基博の「Girl」という曲から彼が気になっていたので、2010年の野外ライブ「GREEN MIND」を寝っ転がりながら鑑賞。深夜から早朝にディゾルブする4時の馬場に、爽やかな風が吹き渡りました。

 そんなこんなでフリープラン終了時刻の5時になり、早朝の馬場に放り出された自分は、ただぼんやりしたいときやなにか考えたいとき、へこんだときや気持ちを奮い立たせたいときに行く隈講(大隈講堂)に向かいました(本日馬場歩き2度目)。

 隈講はもちろん、東京タワーにスカイツリー、太陽の塔に大仏など、圧倒的巨大建造物っていいですよね。やっぱり人間、でかいものが必要だと思います。うわーこんなでかいものに比べれば自分も自分の悩みもちっぽけじゃん、まあいっかアハハみたいに、物事を相対的にみられると言いますか。

 隈講の中央出入り口の階段にちょこんと座り、流れゆく人々を眺めます。挨拶を交わす門番と警備員、ジョギングしているおじさんや犬を連れたおばさん、折りたたみ椅子に座ってなにか読んでいる外国人、車椅子で颯爽とやってきて私と同じく人の流れを見ている人、いかにも朝帰りの若者や出勤途中のサラリーマン。そしてまっすぐな空とグラインドする鳥を見るだけで、まっさらになれる気がします。

 街の呼吸を感じて自分の気持ちが自分に追いついたところで、朝6時、早稲田駅へ。駅に向かう道中、ふと恥ずかしげもなく大きな声で、校歌の一節を歌っていました。それが今回ご紹介する「集まり散じて人は変われど 仰ぐは同じき理想の光」。

 もういまじゃ、この街をあの時のようにこうして歩いているのは自分くらいかもなと思いつつ、不思議と焦りはなく。どこにいたってちりぢりになったって、それぞれが個々として志を持ってがんばっているはずだから。

 変わらないようで変わっているもの、変わっているようで変わらないもの。その淡いを行き来しながら、人の痕跡や輪郭を刻みながら、街の記憶は形作られていくのかなと思います。

 それにしても、こんなに孤独が寂しくないのはなぜなのだろう。不均衡で不安だけれど独り占めできる自由を感じる。久しぶりに、その日の始まりではなく前の日の続きみたいな朝を味わって、うとうとしながらも清々しい気分になったのでした。

 なんだか毎週金曜日の自分担当分の「コトバスケット」、もはや言葉紹介ではなく日々のKIMOCHIを昇華する場になってますが、なにか言われない限りはちょこちょこ続けようかなと思っています……と言いながら天邪鬼なので、次回は映画用語か哲学用語を紹介するかもしれません。(福)