作品のリアリズムに関して、『耳をすませば』の例も挙げてみる。今作で監督を手掛けたのは、宮崎駿ではなく近藤喜文だ(宮崎は脚本を担当)。

 近藤は「誰もいない場所で主人公の月島雫がしゃがみ込む際に、下着が見えないようにスカートを押さえる」 という絵を描いた。しかし、それに宮崎駿はめちゃくちゃがっかりしたそうだ。宮崎駿が考える月島雫というキャラクターは、右脳型の感覚肌であり、誰も見ていない場所でなら下着のことなど気にせずに、本能的に座ってしまうような子だったのだ。

 つまり、雫はスカートを押さえることで「ちょっと考えてから行動する、自意識が強い子」になってしまったのである。『となりのトトロ』で宮崎駿は草壁サツキ(10歳)や、その妹・メイ(4歳)のパンツを描いている。これは、田舎町の自然のなかで暮らす子どもをリアルに描きたかったのだろう。「ロリコンだから」と結論づけるのは、あまりにも短絡的ではなかろうか。

作品に深みを加える10代少女の複雑性

 そんなリアリティを重視する宮崎駿にとって「10代の少女」は、描いていて楽しいのだろう。というのも、10代の女子って“人類で最上級に複雑な精神状態”だと思うからだ。

 彼女たちは同年代の男子より、何倍も人生哲学を考えている。コミュニティのなかで周りの目を意識したり、冒険したくなったり、おしとやかになってみたりと忙しい。ある意味、不安定で危うい存在だ。

 例えば、サツキはトウモロコシにかぶりつく野生児っぽい顔もあれば、メイがいなくなった不安から涙する一面もあり、さらに、車道に飛び出して車を止める度胸もある。

 ナウシカには勇敢さと母性があるし、『天空の城ラピュタ』のシータは清楚な一面もあれば、行動的な面も持ち合わせている。少女たちの複雑なキャラクターがものすごくリアルに描かれているから、宮崎監督の描く世界って面白いと思う。

 ラピュタもナウシカも男子だけを登場させると、単純な冒険活劇化してしまうはず。ラピュタの主人公・パズーだけで敵のムスカを倒すと、もう少年向けのバトルアニメであり、筋肉の話になる。そうでなくて、きちんと心の機微を描き、最終的に哲学までを描くことが大事だ。そのために宮崎駿には”少女キャラ”が必要なのだと思う。

 宮崎駿は確実に「少女への愛」を持っているはずだ。ただ、ロリコンではないと思う。セクシャルな欲求というより、精神性的な意味での少女愛なのだろう。

 10代前半のナウシカの胸を大きく描いたのは、決してスケベオヤジだからじゃない。キャラとしての抱擁力を描きたかったからだ。ロリコンなら未熟さに萌えるはずなので、きっと胸を小さく描いただろう。

 そんな”少女キャラ”の哲学に注目して宮崎監督のジブリ作品を観てみると、新たな楽しみが見えてくるかもしれない。作画、ストーリーと堪能できる部分が多すぎる宮崎作品だが、次回はぜひ「少女の魅力」に注目してみるのも一興だ。

(文/ジュウ・ショ)


【PROFILE】
ジュウ・ショ ◎アート・カルチャーライター。大学を卒業後、編集プロダクションに就職。フリーランスとしてサブカル系、アート系Webメディアなどの立ち上げ・運営を経験。コンセプトは「カルチャーを知ると、昨日より作品がおもしろくなる」。美術・文学・アニメ・マンガ・音楽など、堅苦しく書かれがちな話を、深くたのしく伝えていく。note→https://note.com/jusho