今、若い世代からも、また海外からも熱い注目を浴びている昭和ポップス。昨今では、音楽を聴く手段としてサブスクリプションサービス(以下「サブスク」)がメインで使われているが、必ずしも当時ヒットした楽曲だけが大量に再生されているわけではなく、配信を通して新たなヒットが生まれていることも少なくない。
そこで、本企画では’80年代をメインに活動した歌手・アイドルの、『Spotify』(2022年7月時点で4億3300人超の月間アクティブユーザーを抱える、世界最大手の音楽ストリーミングサービス)における楽曲ごとの再生回数をランキング化。当時のCD売り上げランキングと比べながら過去のヒット曲、現在のヒット曲を見つめ、さらに、今後伸びそうな“未来のヒット曲”へとつながるような考察を、昭和ポップス関係者への取材を交えながら進めていく。
浅香唯に続き、2人目に取り上げるのは、日本の女性アイドルを語る上では欠かすことのできない存在である、松田聖子。シングルがオリコン24作連続1位を記録しただけでなく、アルバムも年間TOP10入りレベルの高セールスを連発、また、’90年代にはシングル『あなたに逢いたくて~Missing You』がミリオンセラーを突破し、現在も日本武道館での公演回数は120回で女性アーティストにおいて歴代最多、という記録を更新し続けている。
そんな彼女のこれまでのヒット曲と、今現在のサブスクでの人気曲は、どのように異なっているのか? ’78年に1本のカセットテープから松田聖子を発掘し、’80年代に数々のヒットを世に送り出した名プロデューサー・若松宗雄氏(当時CBS・ソニーに在籍)とともに、PART1〜PART3の全3回にわけて見ていきたい。
若松氏ご自身はサブスク未体験とのことだが、YouTubeでの『若松宗雄チャンネル』をほぼ毎日更新し、’22年7月には初の著書『松田聖子の誕生』(新潮新書)を上梓、各書店やメディアで大きな反響を呼んでいる。
なお、聖子の場合、ヒット曲があまりに多いので、’80年代に限定し、全3回にわたって考察していく。また、’80年代の楽曲のうち、’85年の全英詞アルバム『SOUND OF MY HEART』はサブスク未解禁である点もご注意いただきたい。
それでは、’22年8月末時点での累計再生回数の上位から見ていこう。
当時は10番手でも現代では圧倒的1位の「赤いスイートピー」、どう生まれた?
第1位は、’82年に発表された通算8作目のシングル「赤いスイートピー」(作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂、編曲:松任谷正隆)。累計再生回数は800万回を超え、2位以下を大きく引き離している。この曲は、‘22年9月に放送された『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)内の企画『平成生まれ1000人に聞いた! 今聴くべき80年代女性アイドルソングBEST15』でも、ほかのアイドルらの曲をおさえて1位となるなど、若い世代からも支持されている。ゆえに、この順位は当たり前だと思われるかもしれないが、当時のシングルレコードの売り上げは累計50万枚(オリコン調べ、以下同)で、’80年代の聖子の楽曲のなかでは10番手(そもそも50万枚超が10作というのも驚異的だが)。
この要因としては、「青い珊瑚礁」から数作続いた聖子フィーバーが少し落ち着いたところで、しっとりめのバラードとなり、さらに’81年末に薬師丸ひろ子が「セーラー服と機関銃」で歌手デビューしたことや、柏原芳恵、松本伊代といった若手が相次いでブレイクしたことが初動売り上げの勢いに影響したと考えられる。ただし、本作を収録したアルバム『Pineapple』の売り上げは59万枚で、前作『風立ちぬ』の約36万枚から大幅にアップしているので、ここでよりアルバム・アーティストとして格上げし、新たなファン層を獲得したことが読み取れる。本作はどのように誕生したのか、改めて尋ねてみた。
「『赤いスイートピー』は納得の1位ですね。ここで女性ファンが増えたのを実感しました。このころを含め、’80年のデビューからしばらくは、私がまずシングル曲のタイトルを決めて、そのあとに詞や曲を書いてもらっています。春に向けて、聖子のイメージから“赤いスイートピー”とつけました」(若松氏・以下同)
ちなみに、本作がヒットしたことで、当時は存在しなかった赤色のスイートピーが流通し、今はプレゼントの定番カラーとなっている。ヒット曲が事実まで変えてしまったのだ。
「タイトルを決めたあと、作詞家・松本隆さんのマネージャーさんからのすすめもあって、曲が先ということになり、ユーミン(松任谷由実)に作曲を依頼。その後、彼女のコンサートの合間を縫って、メロディーの一部を変えてもらえるようお願いしに行ったこともありましたね。
Aメロのラスト(タバコのにおいのシャツにそっと寄り添うから~の部分)が下がっていく感じで終わるのを、“春に向かって気持ちが盛り上がっていく感じに直してください”と依頼しました。すると忙しいなか、その場でピアノを弾きながら、すぐに直してくださったんです」
“天下のユーミン”に書き直しをお願いしたという若松氏もすごいし(当時、ユーミンにはそのような経験がなかったそう)、それを謙虚に受け止めて、以降のさらなるメガヒットにつなげていったユーミンもまた大器と言えるだろう。なお聖子が、サビに向かう部分の♪はんとーし、すぎても~♪を譜割りどおり歌わなかったエピソードも著書『松田聖子の誕生』に詳しい。
また、本作はしっとりとしたバラードというのも大きな挑戦だったが、聖子が前年までのパワフルな歌声から、いわゆるキャンディ・ボイスに変わっていったのもこのころだろう。これも、若松氏の指導だったのだろうか。また、聖子のモノマネでも特徴的な、「る」を「どぅ」と可愛らしく発音するようになったのも、この少しあとくらいから。(例:『野ばらのエチュード』、♪くちびるを寄せる少女 → ♪くちび「どぅ」を寄せる少女 など)これも、キャンディ・ボイスをより可愛く魅せるためのすごい発明と言えるだろう。
「このころの聖子は朝から晩までスケジュールがビッシリで、過労で倒れてしまうこともしょっちゅうでした。毎日いろんな仕事で歌っていたために、声が出にくくなってきたんですね。そこで、負担のない歌い方を一緒に考えていきました。
“どぅ”と発音するのは、いいか悪いかは別として、スケジュールをこなすため、たまたまそう歌ったのがハマっていったんじゃないかなと思います。でも、それこそが彼女の持ち味なんでしょうね」
「青い珊瑚礁」の“あのサビ”は作曲家・小田裕一郎さんの直感から生まれた
そして、第2位には2ndシングルの「青い珊瑚礁」(作詞:三浦徳子、作曲:小田裕一郎、編曲:大村雅朗)。“赤”と“青”でツートップとなったが、こちらも前出の『平成生まれ1000人に聞いた! 今聴くべき80年代女性アイドルソングBEST15』においてアイドル全体の中で7位、聖子の中でも2番手となっている。当時のセールスもオリコン最高2位ながら、累計約60万枚で5番手の大ヒットとなっている。「青い珊瑚礁」といえば、やはりサビ頭のインパクト。若松氏もオーディションのカセットテープで釘づけになったという聖子の強い歌声が、一気に入ってくる。
「これは、もともと(作曲を担当した)小田さんが作曲した『アメリカン・フィーリング』(サーカス、’79年)を聴いて、“こんなにすばらしい曲を作る人がいるんだ”と思い、彼の所属事務所を自分で探してお願いしに行きました。『青い珊瑚礁』というのもプロデューサーの私がつけたのですが、そのタイトルを小田さんに伝えたら、あのサビの部分をギターを弾きながら歌い始めたんです。
♪あー、私の恋は~♪って、あのフレーズは彼の直感で出てきたんですよ」
確かに、このサビのフレーズや、編曲の大村雅朗による胸が高まるようなイントロ、何より聖子の希望に満ちた歌声は、すべて“青い珊瑚礁”という若松氏のコンセプチュアルなタイトルありきで生まれたものだと合点がいく。’80年代に入った開放感も相まって、本作は当時も大ヒットとなったが、聖子の楽曲にはほかにも国内、海外問わず旅をイメージするものが多い気がする。
「それは私が旅好きで、それと季節感も好きだから。そこに地名も当てはめると、リスナーの方々に歌が入りやすいんですよね。感情移入しやすいというか、日常ともオーバーラップしやすいのだと思います。なお、アルバム各曲のタイトル付けは各作詞家さんに自由にお願いしましたが、アルバム全体のタイトルやキャッチコピーに至るまで、私が決めていました」
聖子のアルバムを並べてみるとわかるが、一作ごとに異なる色合いがそのアルバムの特徴を象徴的にとらえつつ、帯のキャッチコピーに必ず”聖子“という単語が入るのも特徴的。これも、連続してアルバムを購入したくなる一因だったであろう。
TOP20にシングル以外が5曲も!「ヒット曲にもっとも必要なのは“意外性”」
そしてTOP20全体を見渡すと、驚くことに、3位「SWEET MEMORIES」、5位「瑠璃色の地球」、14位「制服」、15位「抱いて…」、19位「蒼いフォトグラフ」と、シングルA面以外の楽曲が5作もランクインしている。これが、シンガーソングライターのように、もともとアルバム・プロモーションを本丸ととらえてシングルはアルバムと同時発売にしたり、アルバムからリカットしたり、というリリースの仕方であれば、こうした現象も起こりうる。だが聖子の場合は’80年代だけでも、30万枚を超えるヒットシングルが21作もあるのだ。これを押しのけるほど人気のカップリング曲やアルバム曲が5曲もあるという事実から、聖子や若松プロデューサーがただならぬ存在だったと、改めて気づかされる。
シングルA面曲以外で最上位となったのが、通算14作目となった’83年のシングル「ガラスの林檎」のB面で、のちに両A面扱いとなった「SWEET MEMORIES」(作詞:松本隆、作曲・編曲:大村雅朗)。2コーラス目が英語から始まるジャジーなナンバーで、かなり意外性のある作品だ。当時、とあるバーでペンギンが歌うというアニメーションが施された、サントリー「CANビール」のCM曲に起用されていたが、これが有線放送で火がつき、「ガラスの林檎」の順位が各種チャートで下がったころに両A面シングルとしてあらためて発売。
その結果、レコード売り上げが再浮上し、ついには発売1週目と発売13週目にオリコン1位を獲得したことで、’80年代の聖子では最大となる累計85万枚以上を売り上げることとなった。その後「SWEET MEMORIES」は、’99年の『NHK紅白歌合戦』で歌唱されたり、別のCMに起用されたりしたこともあり、今や40組以上のアーティストにカバーされるほどのスタンダード曲に成長した。
本作を作曲した大村雅朗は、TOP20内にも7作を担当し、21位以下でも24位「マイアミ午前5時」、25位「セイシェルの夕陽」、30位「Kimono Beat」など、数多くのアルバムの名曲を手がけており、聖子のメイン・アレンジャーとも言えるだろう。
「大村さんが編曲した山口百恵さんの『謝肉祭』を聴いたときに、“なんてオシャレで斬新なアレンジをする人がいるんだ”と思って、『青い珊瑚礁』を作るときにはじめて編曲をお願いしました。萩田光雄さんや船山基紀さんは、すでに実績が多かったのに対し、大村さんは当時、まだそこまで名前が知られてなかったのも、私の好きなポイントですね。
聖子はいつも大村さんを“まーくん”と呼んで親しくしていました。大村さんは、“聖子ちゃん、大丈夫?”とか“きっと歌えるから”と、いつも優しく声をかけてくれて。クリエイティブな部分では強く意見するときがあっても、ふだん関わるなかでは、とてもいい方でしたよ。私と聖子の仲裁役というわけではないけれど(笑)、空気がよどんだときには、状況をみて間に入ってくれていたと思います」
ちなみに、シングルA面の「ガラスの林檎」(作詞:松本隆、作曲:細野晴臣、編曲:細野晴臣、大村雅朗)は今回のサブスクランキングでは23位だが、こちらは崇高な雰囲気のスロー・バラード。つまり、「ガラスの林檎/SWEET MEMORIES」は2曲とも、かなり挑戦的な作品だったと言えるだろう。
「ヒット曲にもっとも必要なのは、“意外性”なんです。だから、“それまでの聖子なら歌わないんじゃないか”という思いから、途中で大滝詠一さんや細野晴臣さんにも曲を依頼するようになりました。聖子と2人を組み合わせることで、これまでにない色合いを出して、ほかの歌手とは異なる路線も打ち出しました。『ガラスの林檎』は神聖なイメージで、私も大好きですね。細野さんのメロディーと聖子の声は、意外なようですが、ものすごく合っていると思います」
それにしても、このただならぬスケール感は、レコード大賞も狙えそうなほどだが、そういった戦略はあったのだろうか。
「何かで大賞を狙おうとかは一切、考えたことがありません。1年目は何をやってもフレッシュだけど、2年目、3年目にはいろいろなことに慣れてきちゃう。そうならないように、王道路線を行くのではなく、いつも意外なものを届けたい、というのが私のやり方なんです」
若松氏が、旅行気分や季節感などを想起させるタイトルをつけたり、意外な作家を起用したりと、常にリスナー目線でワクワクするような制作を心がけていたことで、記録にも記憶にも残るヒットの数々につながったということが、この上位数作についての考察だけでもよくわかる。
次回は、4位以下のヒット曲やシングルのB面曲についても迫っていく。
(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)
※PART2は一週間後の9/23(金)に公開予定です!
【PROFILE】
若松宗雄(わかまつ・むねお) ◎音楽プロデューサー。1940年生まれ。CBS・ソニーに在籍し、1本のカセットテープから松田聖子を発掘した。’80年代後期までのシングルとアルバムをすべてプロデュース。ソニー・ミュージックアーティスツ社長、会長をへてエスプロレコーズ代表。現在も三味線弾き語りの演歌歌手・三田杏華や高校生演歌歌手の石原まさしを精力的にプロデュースしている。『松田聖子の誕生』(新潮新著)が初の著書。