「2020年の頭にコロナウイルスの感染拡大が始まって、映画の企画も延期になったりした。ちょっと悶々としている期間でもありましたが、静かに考える時間でもありましたね」
淡々とした語り口ながらも、内なる情熱が伝わってくる。彼の名前は塚本晋也(63)。モノクロのスタイリッシュでスピーディーな映像が自主制作ながらも話題となった『鉄男』(1989年公開)で、90年代の邦画界にすい星のごとく現れた映画監督です。
女性の自立とエロティシズムを描き、ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞した『六月の蛇』(2003年公開)や、戦争の残虐さを余すところなく表現した『野火』(2015年公開)では、毎日映画コンクールをはじめとする数多くの映画賞を受賞しました。
近年は、俳優としても大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』(2019年・NHK)や連続テレビ小説『おかえりモネ』(2021年・NHK)などに出演し、独特の存在感を放っています。
インタビュー前編では、塚本監督の映画製作についてたっぷり話してもらいました。
※「塚」は塚の旧字体のため、利用機種によっては表示されないことがありますのでご了承ください。
原宿のキデイランドで遊んだ子ども時代。独学で映画の道へ
──塚本監督は渋谷生まれの渋谷育ちということで、どのような子ども時代を過ごされたのか気になります。
「僕が住んでいたのは原宿なんですけれど、ちょっと路地に入ると普通の住宅街だった。確かに、あまり土の地面を見るも機会ないし、街中はほとんどコンクリートで舗装されていましたね。これを言うと都会的な感じになっちゃうんですけれど(笑)、『キデイランド』に遊びに行っていました。当時は今みたいにおしゃれな感じじゃなくて、いわゆるおもちゃ屋さんだったので、プラモデルとか置いてあったんです」
──子どものころは、何に夢中になりましたか?
「当時はお小遣いが50円だったけれど、すごく頑張ってお金を貯めて1500円する『G.I.ジョー』の人形を買いました。その人形で遊び倒したよね(笑)。『ウルトラQ』(注:特撮テレビドラマ・1966年放送)にもむちゃくちゃハマりました。今は映像がクリアになってよみがえっていますけれど、僕が高校生や大学生になったときは当時の資料がなかったので、(本当にその作品が)あったのか、なかったのかわからない、夢のような記憶だったんです」
──それだけ記憶の中に残っていたのですね。
「そうなんです。『ウルトラQ』の映像が、夢なのか現実なのかわからないけれど、自分の中で潜在的な記憶が残っていて、それが『鉄男』につながっていったんです。映画では『ガメラ』とか怪獣映画が好きで、アニメだと『ルパン三世』にもすごくハマっていましたね」
──アニメはほかに何が好きでしたか?
「『あしたのジョー』はバイブルっていうくらい好きでした。あと、ちょうどテレビが白黒からカラー放送になるときに、『巨人の星』が放送されたんです。あらかじめトイレにも行って、身体もほぐして絶好調な状態でテレビの前にスタンバイしていましたね」
──そこから、映画監督を志すようになったのはいつごろですか?
「意識しだしたのは中2ぐらいです。父が8ミリフィルムで映像が撮れるカメラを買ったんです。それを横目で見て、“あれがあれば映画ができるんだ……”って指をくわえて見ていた(笑)。中学生にとっては3分で1500円ほどするフィルムの現像代が高かったけれど、3か月分のお小遣いを貯めて10分くらいの作品を撮りました。8ミリで映画を撮りたいと決めてから、編集機も購入したんです。編集もちょっとずつ覚えていって、物語をつないでいく面白さに気づきましたね」
──映画研究会のような部活には所属されたりしたことはありましたか?
「ずっと個人でやっていて、映画関係の部活に入ったことは一度もなかったです。映画に関しては、自分で観るのが勉強だったので、教わったことはないです」
──『鉄男』では、監督・脚本・撮影・特殊効果・美術・照明・編集のほか出演もされていますが、すべて自分で担当されたきっかけは何でしたか?
「8ミリフィルムで映画を撮っていたときから、ほかに頼む人がいなかったから自分でやったわけなんですけれど……(苦笑)。でも、どのパートもとても面白くて、全部で映画作りだと思っていました。僕にとって『鉄男』が劇場用第一作といわれているのですが、もともと自主映画を撮っていたのが8ミリから16ミリに変わっただけで、やっていることは同じなんです」
好きじゃないとカメラを持つ手が動かない。こだわりのキャスティング
──大学は日本大学芸術学部を卒業されていますが、映画学科を専攻されていたのですか?
「実は高校が日芸付属の美術学科だったので、日芸の映画学科を受けるか迷いました。でも監督術を学ぶよりも、美術を常に基本にしておこうと思ったので、やはり美術学科に進みました」
──そこが、塚本監督の作品内の美術にもつながっていくのですね。大学を卒業されてからは、どのように映像の道に進まれたのでしょうか。
「大学卒業後にCM制作の会社に入りました。それと同時に演劇もやっていたのですが、そのころ、周りから“すげぇ面白い俳優さんがいる”といって紹介されたのが田口トモロヲさんだった。田口さんの独特の動きを見てカッコいいなって思って、映画への出演につながっていきました」
──塚本作品の俳優さんは、みなさん独自の存在感を放っていますが、キャスティングのこだわりはありますか?
「キャスティングには、こだわりが強いですね。やっぱり好きな人じゃないと、カメラを撮っている手も動かないというか。プロデューサーからお話をいただくときも、自分が興味のある方じゃない場合だと、“キャストは自分に決めさせてください”って伝えています。その前提じゃないと撮れないんですよ」
──出演される俳優さんたちも、力が入りますね。
「それまで一緒に仕事をしたいと思っていた方や、やっぱり独特の存在感のある方にお願いしていますね」
──商業映画でも、キャスティングを担当されていたのですか?
「初のメジャー映画『ヒルコ/妖怪ハンター』(1991年公開)でも自分でプロデューサーに提案させていただきました。『双生児』(1999年公開)は主演の本木さん(本木雅弘)ありきの企画だったけれど、僕も好きな俳優さんだったんです。それ以外の豪華キャストは全て自分で決めさせていただきました。今思うとびっくりするような方々ばかりです」
店舗でのゲリラ撮影や街中での発砲、警察に捕まったことも……
──『鉄男II BODY HAMMER』(1992年公開)の撮影では、実際に営業中の店舗でゲリラ撮影をして大変な騒ぎになったと聞きますが……。
「『鉄男』を作ったときに、許可を取ればいい場所も全部、無許可で撮影したので、非常に反省したんです(笑)。『鉄男II〜』は、基本的にはちゃんと許可を取っているんです。でも許可が取れないところで、どうしても雰囲気がよくて撮りたいっていう場所があった。あんまり乱暴なことはしたくなかったけれど、誘拐シーン(注:劇中で田口トモロヲさん演じる男性の子どもが、謎の男に誘拐される)は、本物の誘拐だと思うようなリアルなシーンが撮りたくてゲリラ撮影をしました」
──どのように撮影されたのですか?
「本番は1回しかできないので、“君はここにいて、こう動いて”っていうかなり緻密な作戦を立てたんです。リハーサル場所の床を実際の撮影現場とまったく同じ尺になるようにバミって(役者の立ち位置や小道具の置き場所に印をつけること)、本番と同じように全部シミュレーションし尽くしました」
──映像からも、そのスリリングな様子は伝わってきます。
「『スクーピック』というカメラを3台用意して、いろいろな方向から撮影する。もし見つかっても大丈夫なように、カメラは本番前まで手に握ったまま紙袋に入れていたんです。きちんと時計も正確な時刻に合わせて、“何時何分ジャストになったら僕が手を挙げるから、そこから撮影を始めて”って入念な打ち合わせをしたんですけれど……。いざ本番ってなったら、1人だけこっちを見ていないスタッフがいるんですよ(笑)。“やるよ~”ってだんだんその人のそばにたどり着いて、肩にポンって手をやって“やるよ”って伝えて、またスタンバイ場所に戻ったんです」
──緊迫感が伝わってきますね。
「ちょっと腰くだけな気持ちに戻って、さあ始めるってなった。カメラを店員の人に取られそうになったときのために、アメフトのパスのようにカメラを受け取る係も準備していたんです。僕ともう1人は受け取り係をつけていたんですが、ちょうど受け取り係のいない彼が店員さんに捕まってしまったんです。店員がみんな彼のもとに集まっていて、“文字どおり袋叩きってこのことか……”って思うような……(笑)。僕が“塚本だよ、パス、パス!”って横から言ったんですが、捕まった彼が僕だと気づかず、目をつぶったまま絶対にカメラを放さなかったんです。結局、そのカメラのフィルムは抜かれてしまった。今、申し訳ないことをしたなとよく彼のことを思い出します」
──でも残りのカメラは無事でよかったですね。
「そうですね。アフレコのシーンだったので、セリフを言わなくても大丈夫だったんですが、田口さんも迫真の演技で“だ、誰か~!”って叫んでくれたんですよね(笑)。あとの2人は逃げたので2つのフィルムを編集しました。でも『鉄男II〜』のもう1か所でのゲリラ撮影では、スタッフがみんな捕まっちゃったんです」
──それはすさまじい現場ですね。
「ガード下を自転車に乗った田口さんが走るシーンで、(肉体の一部が鋼鉄の銃器と化した)田口さんの胸から銃が発砲される。その弾がバババッてコンクリートの壁に着弾する仕掛けを作っていたんです。もちろん1回だけの撮影で撮ったんですが、そのガードのすぐそばが警察の宿舎だったんですよ……」
──(笑)。それは大事件ですね!
「すげぇ早く警官がやってきたので、“日本の警察はすごく優秀だな”って思ったんですけれど(笑)。運が悪いことに、その日は高架上を要人が通る予定で厳戒態勢だったみたいで。そこで発砲なんてしたので、すぐ捕まりましたよ。『大脱走』っていう映画みたいにみんなバラバラに逃げたのに、警察署に着いたらみんないたんです(笑)。警察の方も映画だとわかると明るい雰囲気でしたね」
──自主映画ならではのエピソードですね。
「『鉄男』のころは、それこそ許可なしで撮っていたんですよ。メイン舞台となった埼玉の工場も、撮影現場で準備していたら間に合わないので、僕は映画の役のサビサビの(鉄の)格好で、電車に乗っていた。あるとき、撮影していたら工場の持ち主に見つかってしまって、壁と屋根のすき間から逃げようとしたところで捕まったんです(笑)。持ち主には“許可を取ればよかったのに”って言われました」
──いわゆる商業映画と呼ばれる映画と、自主映画との違いを教えていただけますか。
「要は大きな会社の映画ではなく、個人の小さな会社で作っている作品ということです。大きな会社が製作するとプロデューサーなど決定権を持つ人が大勢いるのが普通ですが、僕のように有限会社(海獣シアター)を作って自分で資金を集めると、自由に決められる。好きなものを作れる、ということです」
──商業映画には興味がないという感じでしょうか。
「規模が大きな映画も作りたいという夢も高校生のころからあったので、『ヒルコ/妖怪ハンター』の話が来たときはものすごくうれしくて、頑張って作りました。商業映画に対して完全に暖簾を下ろしているわけではなくて、依頼が来るとうれしいんです。原作を読んで検討するのですが、自分がそれを面白くできる遊び道具が見つからないときには、申し訳ないけれど“ごめんなさい”と断っているんです。よほど頑張れる企画でないと迷惑をかけてしまうと思っています」
立ち消えになったタランティーノとの『鉄男』コラボ
──クエンティン・タランティーノ監督が『鉄男』を映像化したいと言っていたそうですが、実際に接点はあったのですか?
「『鉄男II BODY HAMMER』で世界中の映画祭を回ったんですが、そのときタランティーノ監督の『レザボア・ドッグス』(1992年)も同じように映画祭に出ていたので、どこかの会場で会えるかなって思っていた。実際には会えなかったけれど、タランティーノ監督が『鉄男』の話をしてくれているというのは耳にしていました」
──その当時から、海外での映画化の話は出ていたのでしょうか。
「実は『鉄男II〜』が撮り終わった時点で、アメリカ版の話も進んでいたんです。最初は違うプロデューサーから依頼があって、B級路線だったので逆にリアリティーを感じてハリウッドまで打ち合わせに行きました。そのタイミングで、タランティーノの所属していたエージェント会社にご挨拶に行ったんです。というのも以前に、その会社から入らないかと誘いを受けていて」
──海外の事務所からオファーがあったのですね!
「でもそのありがたさを理解せず、“では考えさせていただきます”って日本的に挨拶したらどうやら向こうが怒っちゃったらしいんです(笑)。それで、事務所には入るつもりはなかったけれど詫びのご挨拶に出かけた。そのときアメリカ版『鉄男』の話をしたら、“絶対にタランティーノが興味を持つよ”って言われたので、最初のB級企画よりもこちらのほうで進めたいって考えたんです。でも打ち合わせをしながらも、自分の英語力や、どれくらいの規模で自分の思ったような映像が撮れるのか見えてこなかった。少しずつ先延ばしにしていったら立ち消えてしまって。結局、自由な作品を作りたいと『東京フィスト』(1995年公開)や『バレット・バレエ』(2000年公開)のような作品に向かっていきます」
──塚本さんの作品は海外でも高く評価されています。黒沢あすかさん主演の『六月の蛇』(2003年公開)は、それまでの作品とは一変して、エロティシズムをモチーフに女性を描いています。ヴェネツィア国際映画祭で賞を受賞されていますが、最初は受け入れられるか不安だったそうですが……。
「自分としては女性に対する敬意を持って作った作品ですが、観た人が、どこまで作品を理解してくれるかわからないですからね。お客さんからブーイングが起こる可能性は十分にありうると思っていた。だから黒沢さんには“バッシングを受けるかもしれない”とあらかじめ謝っていました。そうしたら審査員長が女性の方で、すごく作品を喜んでもらえたんです」
俳優業でも活躍。役作りのため、体重を40キロ台まで落としたことも
──映画製作でつらかったことってありますか?
「いろいろありますが、結果映画ができあがっているので文句は言えないです。自分の至らなさで、自分で自分の首を締めているということもありますからね。わかりやすく大変だった作品はというと、『双生児』。僕のやり方は身内のスタッフと半年くらいかけてじっくり撮影するスタイルだったけれど、この作品は1か月で撮らなきゃならなかった。そんな中、旅館での撮影中にアデノウイルスが流行って、みんな次々倒れて行ったんです。初日の時点でもう助監督もいなかったくらいで。僕は気をつけていたけれど、“今、ウイルスが身体に入ったぞ!”みたいな瞬間があって(笑)。でも撮影を止めるわけにはいかないので、ファインダーを覗(のぞ)くふりをしながら、カメラに頭を乗せて休んでいました」
──(笑)そうなのですね。日本兵を演じられた『野火』の撮影が大変だったのではと思ったのですが。
「『野火』はスタッフもキャストとして出てもらうつもりだったので、初めは男性スタッフだけ募集したんです。戦争の映画だったのでみんな痩せなきゃいけなかったので、“痩せられる人だけ来てください”っていう条件を出しました(笑)」
──塚本さん自身は、何キロ痩せましたか?
「60キロを55.5キロくらいにすると『鉄男II〜』のころの体重になるので、それを目標としていました。『野火』はそれよりも痩せたので53キロくらいですかね。でも極限的に痩せるところは、そのシーンを思うだけで自然と落ちていったんです」
──役作りのためにしては、かなり絞られていると思いますが大変じゃなかったですか。
「『沈黙ーサイレンスー』(2016年公開、マーティン・スコセッシ監督)に出演したときは40キロ台まで落としました。プロの栄養士の人がついて指導してもらったんです。栄養士の人曰く、危険な領域、ということでした」
──監督業の印象が強かったので、俳優業にも専念されていたのは意外でした。
「僕ね、(俳優業も)結構いっぱいやっているんですよ(笑)。『フルスイング』(2008年放送・NHK)で片言の英語教師役を演じたのを観た映画のプロデューサーから、スコセッシ監督の映画のオーディションの連絡が来たんです。スコセッシ監督は今ご存命の監督の中でいちばん尊敬する監督なので、会うだけでも会ってみたいって思って“ぜひ行きたいです”って返事をしたんです」
──オーディションの手ごたえはどうでしたか?
「これ以上は望めないと思うくらいのいい経験ができた。でも受かったという知らせを受けてから、撮影に入るまで5年以上の歳月がかかりました。途中でキャストも変わってしまうかもと思って、危機感を抱いては、ときどき向こうにアピールをしながら待っていましたね(笑)」
◇ ◇ ◇
映画作りにかける情熱が伝わってくる塚本監督へのインタビュー後編では、2022年に撮影された新作映画について、ミニシアターへの思いなどをお聞きします。
(取材・文/池守りぜね)
〈PROFILE〉
塚本晋也(つかもと・しんや)
1960年1月1日、東京・渋谷生まれ。14歳で初めて8ミリカメラを手にする。’88年『電柱小僧の冒険』でPFFグランプリ受賞。’89年『鉄男』で劇場映画デビューと同時に、ローマ国際ファンタスティック映画祭グランプリ受賞。主な作品に、『東京フィスト』『バレット・バレエ』『双生児』『六月の蛇』『ヴィタール』『悪夢探偵』『KOTOKO』『野火』など。製作、監督、脚本、撮影、照明、美術、編集などすべてに関与して作りあげる作品は、国内、海外で数多くの賞を受賞。北野武監督作『HANA-BI』がグランプリを受賞した’97年にはベネチア映画祭で審査員をつとめ、’19年にも3度目の審査員としてベネチア映画祭に参加している。俳優としても活躍。監督作のほとんどに出演するほか、他監督の作品にも多く出演。『とらばいゆ』『クロエ』『溺れる人』『殺し屋1』で’02年毎日映画コンクール男優助演賞を受賞。『野火』で’15年、同コンクールで男優主演賞を受賞。その他に庵野秀明『シン・ゴジラ』、マーティン・スコセッシ監督『沈黙ーサイレンスー』など。ほか、ナレーターとしての仕事も多い。