その数か月後、大学2年生の春。『イン・アメリカ』を見たときに抱いた直感を信じて大学の演劇部の門を叩いたが、いざ活動の場に入ると身体がまったく動かず、部員ともうまく関われず、練習に参加できたのはわずか2回。「大学を辞めれば人生が終わる」と思っていたため、居場所がないと感じつつも通い続けていたが、2年生の5月、張り詰めた糸がぷつん、と切れてしまった。

「ある日“もう無理だ”と思って、学校を休みました。そう決めた瞬間“ああ、幸せだ”という感情が浮かんできたのを覚えています。なにかから開放されたっていう感覚。いま自分はなにも持っていないし、ラクだ、という感じでした。そこから次の年の3月まで、ずーっと家にいましたね。テレビでお笑い番組を見ていることが多かったかな。別にお笑いが特別、好きなわけではないけれど、ただ笑いたかっただけだと思う」

「自分の人生は本当に終わりだ」

 そんな日々のなかでも残っていた「俳優になる」という直感だけを胸に翌年、21歳の春に上京。いまも住み続けている家賃3万円のアパートに居を構え、演劇学校『ENBUゼミナール』に通い始めた。

「映像・俳優コースの夜間部に通っていて、週に2、3回は授業があったのかな。そこに1年間通いました。それ以外はスーパーの惣菜コーナーで働いて、生活費を稼いで。最初のうちはやっぱり身体がガチガチに固まっていたんですが、後半になり動くようになってきて、だんだん演技がおもしろいと感じるようになっていきました。東京の大学に通っていた高校時代の同級生とひょんなことから再会して、友情を築けたことが大きかったです。

 当時、ぼくは正直、彼を友だちだとは思っていなかったんですが、少しずつ仲よくなって、苦しくなるたびに電話すると“お前は、理解してもらうのに時間がかかるんだ。大丈夫”と言ってくれた。いまでも、この言葉は自分の大きな支えになっています。ENBUの人たちが優しくて、自分を受け入れてくれたことも大きかったな

 ついに巡りあえた信頼できる友人・仲間の存在に励まされ、座学やワークショップ、映画制作が1年続く映像・俳優コースをやり抜いた結果、年間の最優秀俳優賞を獲得した。しかし、続いて入った『劇団東京乾電池』の養成所では、また身体が動かなくなってしまった。

「ENBUのワークショップではうまくいくんですけど、別の場所では身体が固くなって、動けなくなる。東京乾電池でも人と話せなくなって、そのうちに、また人との関わり方がわからなくなった。ENBUでは最優秀賞をとったのに、ここではなにもできない恥ずかしさもあって、すぐに辞めてしまって。人との交流をまた一切しなくなったので、(前述の)支えてくれた友人や、ENBUで仲よくなった人たちとも疎遠になりました。いよいよ“自分の人生は本当に終わりだ”と思っていました

 どうせ人生が終わりなら、好きなことをしよう。これが、無力感に苛(さいな)まれた山崎さんが考えたことだった。

「いままで親にダメだと言われてできなかったことを、全部やってやろうと思ったんです。自転車旅行や、昔、遊べなかったゲーム、パソコン。ネットカフェで1日じゅうボーッとしたり、ただ公園でぼんやりと過ごしていたこともありました。そんな期間が4年くらい続いたと思います」

 ある日、書類で自身の年齢を「29歳」と記入した際に「このままではマズい、何かを変えたい」と思い立って、カウンセリングに通い始め、大きな気づきを得ることに。

「そこでも最初はなにも話せなくて、下を向いて“う〜”と唸(うな)っていると、先生から“人と会話するには情緒がわからないと難しいよね”って言われたんです。そこで“ああ、自分は情緒がわからない人なんだ”と、ハッとしたんです。自分の説明書をもらったような気持ちになって、それ以降、自分はどんな人間なのか、思ったことをその都度、ノートに書き出すようになりました。今では15冊以上にもなっています。

 もうひとつ“あなたじゃなくて、親が悪いんだよ”って初めて言われたのも響いた。“子どものころから成長できていないから、そこを癒やすところから始めよう”と提案されて、悲しかったら泣き、うれしかったら喜ぶなど、感情をそのまま出しましょう、っていうリハビリを続けていくうちに、世界がひらけていく感覚がありました

山崎さんが自分について綴ったノートたち