競技会場から遠く離れた場所で『五輪反対』をアピールする斉藤春光さん(右)ら市民=7月21日、福島県福島市 撮影/牧内昇平

 その無責任体質は、原発問題と共通していると、斉藤さんは言う。

「原発事故も、東京電力の当時の経営幹部たちはみんな『あれは部下がやったことだから知らなかったよ』とシラを切っている。原発から生じる汚染水は、はじめ『トリチウム水』『処理水』と言っていました。だけど、トリチウム以外にもいろいろな放射性核種が入っていることがわかり、処理水と言ってもまだ処理できていないだろう、と指摘されると今度は『処理途上水』と言うようになった。

 言い方をコロコロ変えてごまかしている。そして、汚染された水を海に捨てることについて、政府も東電も責任をとろうとしない。みんな無責任すぎる。今の日本の政治・経済・社会を取り巻く病理が、オリンピックと原発の問題に集中して現れている

 「復興五輪」と喧伝(けんでん)された今回の東京五輪は、斉藤さんにとって、政府の被災地対策の失敗をごまかすためのイベントに過ぎない。

「オリンピックをやる金があるならば、まだ原発事故が回復しないで困っている人がいっぱいいるんだから、被災者支援に回したらどうなのか。コロナだって生活困難に陥っている人がいっぱいいるわけでしょ。そういう人の救済のほうが大事なんじゃないの。政治は本来、困っている人たちのためにあるはずなのに、逆のことをやっている。それが許せない。黙ってられない」

まるで「市民排除の五輪」

 この日、五輪会場のすぐ近くで活動を行った市民団体は、筆者の把握する限りでは斉藤さんたちだけである。それも仕方ない。この日、福島市内では朝10時から気温が30度を超えた。猛暑と大規模な交通規制下で街頭宣伝を行うのは、生易しいことではないだろう。斉藤さんたちは警察官たちによる検問の手前で車を降り、徒歩で1キロ近く歩いてようやく、公園の前までたどりついた。熱中症の心配もあるため、アピール行動は20分ほどで終了した。

 斉藤さんが指摘する通り、原発事故が起きてから10年が経過した今も、福島は「アンダーコントロール」とは程遠い状況にある。たまり続ける汚染水は、多くの人の反対を振り切って福島県沖に放出しようとしている。事故を起こした原発の廃炉作業に終わりは見えず、放射性物質に汚染された地域に住民が帰還できるメドも立っていない。そんな状況を突きつけた斉藤さんたちのアピール行動には大きな意味があると、筆者は感じる。

 もちろん、東京五輪の是非については今や、新型コロナウイルスの感染拡大問題を抜きに語れない。東京都内の新規感染者数がリバウンドを続けるなか、本当に開催が可能なのか。選手村でも感染者が続出している状況を「アスリートファースト」と言えるのか。論点は山積している。

 開幕に先がけて、福島の競技会場周辺を歩いてみてわかったこと。それは、東京五輪が「市民を排除しようとしている」という事実だ。感染が一気に広がるのを避けるために「無観客」で開催するのは理解できるが、市民の憩いの場である公園そのものに近づけないようにする正当な理由はあるのだろうか。県営あづま球場が入るあづま総合運動公園は、東西3キロにおよぶ広大な敷地がある。競技自体が無観客であれば、人びとが大挙してコロナの感染を広げる心配はそれほど考えられない。

 ノーベル文学賞を受賞したジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチに『戦争は女の顔をしていない』という著作がある。それになぞらえて、こうは言えないだろうか。

“オリンピックは市民の顔をしていない”

(取材・文/ジャーナリスト・牧内昇平)