フミヤに言われた忘れられない言葉とは
その後、シングルでは11作目の『Song for U.S.A.』('86年6月発売)を最後に、売野×芹澤コンビでのチェッカーズへの楽曲提供は終了。12作目の『NANA』からチェッカーズはセルフ・プロデュース期に突入し、'92年に解散した。しばらくしてフミヤがソロで活動し始めたものの、彼はチェッカーズ時代のセルフカバーを歌う際、弟の藤井尚之が作曲したものをメインとしており、芹澤廣明の作品は“ひとりじゃ歌えない”と事実上、封印してきた。
しかし、コロナ禍を憂いたフミヤは「人々に元気を届けられるなら」と芹澤氏に相談し、'21年の特別番組『激レア! 藤井フミヤ ギザギザハートからTRUE LOVE!』(NHK BSプレミアム)にて約29年ぶりに芹澤作品を披露し、その後のツアーでもセットリストに組み込んでいる。このことを、売野はどう思っているのだろうか。
「最近、フミヤくんがまた当時の歌を歌ってくれるようになって、本当にうれしい。最高だよ! 歌にとっても、封印されてしまうのは、かわいそうだからね。俺の中でチェッカーズの1番ソングはやっぱり、ひときわ苦労した『ジュリアに傷心』だろうね。12インチ・シングルだった『ブルー・パシフィック』も好きだし、シングル以外なら、アカペラの『ムーンライト・レヴュー50s』かな。それと『ローリング・ダイヤモンド』の、ちょっと不良っぽい歌詞も気に入っているよ。
チェッカーズの魅力はズバリ、“キュートな不良性”。不良なんだけど汚れたイメージがなくて、オシャレなんだよね。フミヤくんは洋服が大好きみたいで、“最初の河口湖のレコーディング合宿のとき、売野さんは真っ白なスーツで来ましたよね”って言い張るんだよ。そんなはずはないんだけど、会うたびに言われた。それに、“いつも、どんな服を着ているの”って、ブランドのこともよく知っていて尋ねられたね。当時、俺は古いベンツに乗っていたんだけれど、チェッカーズの初コンサートで所沢まで乗っていくつもりが、途中でバッテリーが上がっちゃって、行けなくなって悔しかったことまで思い出しちゃったよ(笑)」
(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)
【PROFILE】
うりの・まさお ◎上智大学文学部英文科卒業。 コピーライター、ファッション誌編集長を経て、1981年、ラッツ&スター『星屑のダンスホール』などを書き作詞家として活動を始める。 1982年、中森明菜『少女A』のヒットにより作詞活動に専念。以降はチェッカーズや河合奈保子、近藤真彦、シブがき隊、荻野目洋子、菊池桃子に数多くの作品を提供し、80年代アイドルブームの一翼を担う。'90年代は中西圭三、矢沢永吉、坂本龍一、中谷美紀らともヒット曲を輩出。近年は、さかいゆう、山内惠介、藤あや子など幅広い歌手の作詞も手がけている。