テレ朝版が国民的アニメに成長した背景

 視聴率は高くはなかったが、第3クールの放映続行が決まりかけたとき突然、アニメ制作会社の日本テレビ動画(日本テレビとは関係のない別会社)の社長が失踪、会社は解散となり、放送も打ち切りになってしまう。しかも、会社が解散したことで、当時の映像や資料のほとんどが処分されてしまった(それでも元スタッフの個人保管分とフィルムを現像したイマジカ=当時は東洋現像所=にシリーズ後半の一部が残っているといわれるが、日の目を見ることはあるのだろうか……)。

 そして、失敗作の烙印(らくいん)を押されたアニメ『ドラえもん』がテレビ朝日版として復活するのには、6年の歳月を要することになる。

 確かに日本テレビ版『ドラえもん』は、当時のほかの藤子不二雄アニメと比べるとテイストが違ったのかもしれない。それでも日本テレビ版の試行錯誤によって、結果的にテレビ朝日版『ドラえもん』が原作のイメージと持ち味を尊重した作品づくりをすることにつながったのではないか。再アニメ化の際に、藤本先生を口説くために急きょ元同僚から企画書を頼まれた高畑勲(当時は日本アニメーション)は、脚本家を立てず、原作どおりそのまま絵コンテを作ることを提案したという。高畑勲が書いたテレビ朝日版の企画書『ドラエモン“覚書”』(「ドラエモン」は原文ママ)は、「川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム」でも見ることができる。

『ドラえもん』が誕生して半世紀。原作にも、テレビ朝日版のアニメにも、絵柄の変遷や歴史があったことは誰もが知っている。だから、日本テレビ版も、テレビ朝日版との違いを知るための映像資料として『ドラえもん』の歴史のひとつに加えて、きちんと後世に残してほしいと思う。日本テレビ版があったからこそ、『ドラえもん』は現在のような国民的アニメにまで成長することができたのだ、と思えてならならないのは私だけでなのだろうか。

(文/春原恵)

※太田淑子さんの作品について一部修正しました(2021/11/09)