40代を迎え人生初めての決断

 自ら演じる俳優業、裏方としての音楽制作やプロデュースなどに加えて、新たに3本目の柱が立ったのは2年前。自らが代表をつとめる苺スイーツ専門店「浅草苺座」だ。

最初は東日本大震災の復興支援活動からでした。とあるきっかけで宮城県の山元町のイチゴ農園の社長と出会ったんです。もうひとり、復興支援のために九州から仙台に移り住んだ化粧品会社の社長とも知り合って。山元町は震災の被害を大きく受けてしまったので、3人でそこを復興させる目印として、いつか山元町のイチゴを日本全国、そして世界に発信できるようなお店を東京に出しましょうと誓い合ったのが発端で。

 僕はお店を出すのは初めてなので、経営については化粧品会社の社長からいろいろ勉強させていただきました。実現するまで5年かかりましたけど、2019年5月1日に浅草苺座をオープンさせることができました」

苺スイーツ専門店「浅草苺座」にて。役者、音楽に続く3本目の柱ができ、自宅も浅草に転居した

 当時は外国人観光客によるインバウンド消費が大きかった時期。夢は大きく世界に発信する意味合いから浅草に着目し、ありがちなケーキなど「洋」ではなく「和」でイチゴを売るコンセプトを立てた。思わぬコロナ禍に見舞われたが、2020年11月15日(いいイチゴの日)に2号店、2021年5月1日に3号店と事業を拡大していく。

浅草は観光地なのでコロナ禍の影響で大ダメージを受けました。有名な老舗もバタバタ店を閉めるような状況で、本当に浅草がいったん死んだようになり、僕ら苺座も打撃を受けました。でも、むしろこのピンチをチャンスに変えていこうというのがうちの合言葉。2号店、3号店については普段ならば絶対に取れないような一等地の店舗がたまたま空いて、しかもだいぶ家賃も下がっていた。そこで5年契約すればそのまま5年なので、博打を張るわけじゃないですけど思い切って増やしたんですね。いつか本当にコロナ禍が去ったときにはお客さんも帰ってくると信じています」

 店舗をオープンさせる前の視察も含め足しげく浅草に通ううちに、人情味あふれる街の魅力にすっかり取りつかれ、実はすでに自宅の転居もすませている。

「僕は40歳のときに浅草に引っ越したんですけれど、これまでの人生を考えると、本当にいろいろな人に導いてもらいました。役者に関しては初代マネージャーの細川さんが声をかけてくれたし、バンドを始めたのだって、最初は中学のバスケ部の仲間に “ドラムがいないからやってくれ” と言われたから。パチンコのBGMの仕事もお世話になったメーカーの人からの熱心なお誘いがあった。いろいろやっているようで、自分の意志で決めたことってあまりなかったように思うんですよ。

 でも40歳で浅草に引っ越すっていうのは、ある意味、僕が人生で初めて自分で決断したこと。はたから見れば小さなことかもしれませんが、僕にとっては20年ほど世田谷に住んでいたので、大きな変化だったのかもしれないですね」

柏原収史 撮影/山田智絵

 役者、音楽、浅草苺座と3つの柱が立って、それぞれに目標をすえている。苺座としては店舗のほかにイベント会場や催事場での展開も進めているし、通販にも乗り出す予定だ。

音楽としては本当にいろいろな曲を作らせてもらったんですけれども、大ヒット曲が1コもないんですよ。死ぬまでには絶対作りたい。それこそ僕は結婚して子どもをつくって幸せな家庭を築きたいという願望が今のところまったくないので、ほかで頑張ります(笑)。今いろいろなことをやらせてもらって、大変なことも、つらいこともいっぱいあります。でも、トータル楽しい人生ですね」

(取材・文/川合文哉)