ニューヨークにある劇場がラママの名前の由来

──どうして『渋谷La.mama』という店名にしたのですか?

ニューヨークに『ラ・ママ実験劇場』という有名な劇場があるんですよ。元ファッションデザイナーのエレン・スチュアートさんという女性が1962年に設立したのですが、最初は小さな劇場だったのが、のちに3劇場にまで広がった。最初はエレン女史に黙ってラママと名付けたのですが(笑)、あるとき、西武百貨店の担当から電話が来たんですよ。“今度エレンさんが来日するんですけど、はたのさんに会いたいと言っている”って言うんです。店名の許可をもらうのにちょうどいいかなって思って(笑)、“ぜひ会いたいです”って返答しました。エレン女史に観てもらうために、和太鼓や勅使川原三郎(注:日本の舞踏家)をブッキングしたんです」

──日本のラママを訪れたエレンさんの感想はどうでしたか?

「ちょうどエレン女史が来たときに女性バンドが演奏していて、扉を開けるとすさまじい音がブワッときた。最初はたじろいでいたけれど、次第に態度が変わったんです。彼女も手作りで劇場を作ってきた人だから、ラママが持つ“肌の温かさ”みたいな感じが伝わった。その後も、和太鼓の演奏を見て喜んでいたから、“ラママって名前を使ってもいいですか?”って聞いてみたんです(笑)。そうしたら“いいわよ”って快諾してくれて。それからはエレン女史は東京に来ると必ずラママに寄ってくれました

はたの樹三さん 撮影/伊藤和幸

──表現する場所を見て、情熱が伝わったのですね。私も長年ライブハウスに通っているのですが、騒音問題などで苦労されている話をよく聞きます。渋谷にあるラママは大丈夫でしたか?

「はい、はい、はい。騒音はマンションの管理組合(注:ラママはマンションの入った建物の地下1階にある)にもう謝って、謝ってですね(笑)。今はラママがどういう場所か理解してもらえているからそんなにひどくはなくなったけれど、昔はもう“出て行け!”って感じでしたよ。それでよく40年近くもやっているよね……」

──中でも大変だったトラブルは何でしたか?

「書けないようなこともいっぱいあるけれど(笑)。ひどいのはね、あるときマンションの入り口にカバンがポツンと置いてあったんですよ。何だろう、怖いなって思っていたら、次の日にテレビのニュースを見ていたら画面に見慣れた景色が映っているんです(笑)。どうやら、爆弾が置かれていたんですよね……

──(絶句)。めったにない経験だと思いますが……。そのような周辺環境でもラママを閉店しようとか、移転しようとは思わなかったんですか?

男って一度決めるとね、辞めないんですよ。その後、30年近くはトラブルはなかったですからね。でも火事のときは参りましたね

──火事ですか!?

放火されたんですよね(注:2007年12月23日未明、不審火によって火事になった)。フロア内もブワーッて一面、煙まみれになったんです。裏手の楽屋口から火が出ているのがわかったから、慌ててビルから消火器を持ってきて消火活動をしたんだけれど、消火器って数秒しかもたないんですよ。扉の向こう側には真っ赤な火が燃えているから、そこに向かって消火しようと思ったけれど、防火扉は外開きだからこちら側に開かないんです。でもそのおかげでフロア内は焼けずにすんだんですけれど……」

──館内に煙が充満したり大変だったのではないですか?

電気系統や空調設備がダメになってしまったり、壁にも煤(すす)がついたりしました。でも火事の次の日はクリスマスイブにもかかわらず、ラママに出演したことのあるミュージシャンやスタッフが駆けつけてくれたんです。3日間で延べ200人くらいかな。みんなが片付けを手伝ってくれたりしたのが心強かったですね

フロアの壁に飾られた人形作家・辻村寿三郎さんの作品は火事でも無傷だった。THE YELLOW MONKEYの吉井和哉さんがこの人形を気に入り、「ラママの宝」と言っているそう 撮影/伊藤和幸

──出演者にとっても、大事な場所なのですね。

「火事以外にも、ライブハウスは震動問題が大きい。昔はラママの上階に喫茶店があったのだけれど、ライブ中はテーブルの上のコーヒーカップが震動で揺れたって言うんだよね(笑)。しょうがないから、ステージの天井全部に砂袋を入れたんですよ。200万円くらいかかったかな」

──本当に、自分たちで工夫された内装なのですね。

いろいろあったけれど、ラママはね、“文化”だからね。僕がサングラスかけているのは、こういう場所柄だと周りから馬鹿にされるからね。嫌がらせとかされても、“じゃあ俺も負けないやつになってやろう”って思ってかけているんだよね(笑)」

ラママの地下の入り口にて。サングラスも決まってる! 撮影/伊藤和幸