尊敬するディレクターの教え

──それにしても『ひらり』はすごい人気でした。平均視聴率は36.9パーセント、最高視聴率は42.9パーセント! ご家族や周りの反応もすごかったんじゃないですか。

「それはみんな喜んでくれましたよ。いっぱいサインを頼まれるようになったんですけど、実家の周りの方々、愛知県の方々はそのサインに《NHK》って入れてくれって。“ああ、そういうことなのか。調子に乗ることだけはやめよう” って思いましたね

主題歌『晴れたらいいね』はオリコンチャート1位を獲得。年末の紅白歌合戦ではDREAMS COME TRUEと紅組司会・石田ひかりの共演も(1992年11月) 撮影/高梨俊浩

「『ひらり』の撮影中に30歳になったんですけど、20代の前半とかだったら本当に調子に乗ったと思います。それでもちょっと調子に乗りましたけど、大きくハメを外さなくてすんだのは年齢のせいもありますね。

 あと初めての経験としては、渋谷のセンター街を通って毎日NHKのスタジオに通っていたんですけど、オンエアが始まって2週目ぐらいから僕が出るようになったら、急にみんなが見るんですよ。本当にこういうことがあるんだなってそれが面白くって。面白いんだけど、正直1週間後にはちょっと鬱陶しくなる。人目が気になって、マスクをするようになりました」

渡辺いっけい 撮影/松島豊

「で、あらためて思ったのが、僕は役者として目立ちたいし舞台でも人を笑わせたり感動させたくて役者をやってるけど、ふだんは決して目立ちたくはない。キャーキャー言われたりするのが一番の目標じゃないんだなって。ふだんからしっかり “芸能人” をしている役者さんも中にはいらっしゃるけど、僕にはまねできない。いまだに自分が “芸能人” という意識が薄いですね」

 現場ではチーフディレクターの富沢正幸さん(※)から、ていねいな指導を受けたという。いっけいが今でもいちばん尊敬しているという富沢さんは、舞台とテレビの演技の違い、目線の使い方などを「テクニックとして覚えておいていいから」と根気よく教えてくれた。

※NHKで手がけた作品は数知れず。『わが美わしの友』『ロマンス』『チロルの挽歌』『徳川慶喜』『御宿かわせみ』など。

 だが、いちばん心に残っているのは、ものをつくるうえのマインドだという。

「あるとき富沢さんに “あのさ、テレビってなんで映ってると思う?” って聞かれたんです。うまく答えられないでいると、電気の力だって。

“だから電気の力だよ。例えばお茶の間のセットがあって、カメラ据え置きにするよね。で、スイッチオンにして録画したとしようよ……。そこに役者さんが2人いて、ただただ決められたセリフを交互にしゃべっても、なんかドラマっぽいものが映るじゃん。それなりのものが電気の力で映るんだよ。僕はそこが怖くって……” って」

渡辺いっけい 撮影/松島豊

「そして諭すように言ってくれました。

 “これから君が生きていくテレビの世界には一生懸命燃えている人もいれば、そうでない人もいる。何も考えてない人もいるし、実はエネルギーはまったくない人も紛れてるんだ。それでもそれなりのものが映るから、みんなそれなりに働いているんだよ” と。

 本当のドラマっていうのは、その場でちゃんと俳優同士の関係性、お芝居がしっかり成り立ってこそ。僕らは《ドラマらしいもの》じゃなくて《ドラマ》を撮らなきゃいけないんだっていうことを、そのとき富沢さんから教わりました

待ちに待った「舞台」に呼ばれて

 プライベートでは1993年3月25日に故郷・愛知県の実家にも近い砥鹿神社で挙式。『ひらり』の収録をすべて終えて最終回のオンエアを待つばかりという時期で、《竜太先生が結婚!》と芸能ニュースにもなった。

「かみさんとはもう一緒に暮らしてたんですよね。それが親にわかって、だったらちゃんと籍を入れたほうがいいって。

 3月の終わりに決めたのも『ひらり』のことを考えたわけでもなく。うちの両親の結婚記念日と同じ日にしようみたいなノリで盛り上がっていった気がします」

 しばらく遠ざかっていた舞台でも、野田秀樹からうれしい出演オファーがあった。

実は『ひらり』が決まったとき、野田さんの舞台を降りたんです。しかも降りると決めた日が、舞台のポスター撮影の前日。野田さんから僕の自宅に電話が入って “気持ちはわかるけど、あー、お前もそういうやつだったのかって感じだよ” って。あんな天才に直で言われて、もう演劇の世界には戻れないかもしれないって思いました。

 だから『ひらり』は、自分としては “背水の陣”だったんです。なんとかみんなに認められて終わって、またちょっとしてから野田さんから呼ばれた。一番うれしいことでした」

『虎 野田秀樹の国性爺合戦』の制作発表。『キル』に続いて起用された。前列左より/野田秀樹、白石加代子、大竹しのぶ 後列左より/古田新太、深沢敦、渡辺いっけい、高畑淳子(1994年11月) 撮影/高梨俊浩

 それがNODA MAPの第1回公演『キル』(1994年)。

やっぱり “渡辺いっけい、テレビやってダメになったな” って言われたくないと思いましたね。それは自分のこともあるんですけど、当時は小劇場からテレビに行く人がまだ少なかった。かっちゃん(勝村政信)はいたんですけど、勝村くんは『(天才・たけしの)元気が出るテレビ!!』で、バラエティー枠だったんでちょっと違うんですよ。

 だから僕が下手こくと、“やっぱテレビやんないほうがいい” ってなるんじゃないかって勝手に思って。“俺はちゃんとやんないといけない” と思う気持ちもありましたし、野田さんが遊眠社(※)をやめて、NODA MAPの初めての公演でしたから」

(※)劇団夢の遊眠社。1976年、東京大学の学生だった野田秀樹を中心に旗揚げ。代表作に『ゼンダ城の虜 苔むす僕らが嬰児の夜』『野獣降臨』『半神』『三代目、りちゃあど』など。1992年に解散。

「野田さんの門出だったし、完全な新作。まだ北村さん(北村明子/現シス・カンパニー社長)が制作をやっていて、最初は古田新太が僕の役だったんですけど、野田さんが病気してちょっと延期になって、違う役で出るはずだった僕があの役をやることになったりとか、本当にいろんなことがあった舞台なんです。

 とにかく役者の力量不足で失敗させるわけにはいかないと思って、けっこう頑張ったんですよ。だから『ひらり』の後、30〜32歳くらいはターニングポイントだったなと思います」

渡辺いっけい 撮影/松島豊