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人生100年時代。今や日本人のおよそ半分は50歳以上です。「NEOFIFTY」では、これから50代を迎える人にとって、その先にある老後が「終活の始まり」ではなく「新しい人生がもう一度始まる」と思えるように、素敵な生き方をしている人たちの言葉を紹介していきます。

NEOFIFTY -新50代の生き方-

塚本晋也監督が語る映画作りへの情熱。伝説の“ゲリラ撮影”、ハリウッド版『鉄男』が実現しなかった理由とは

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塚本晋也監督 撮影/佐藤靖彦
目次
  • 原宿のキデイランドで遊んだ子ども時代。独学で映画の道へ
  • 好きじゃないとカメラを持つ手が動かない。こだわりのキャスティング
  • 店舗でのゲリラ撮影や街中での発砲、警察に捕まったことも……
  • 立ち消えになったタランティーノとの『鉄男』コラボ
  • 俳優業でも活躍。役作りのため、体重を40キロ台まで落としたことも

2020年の頭にコロナウイルスの感染拡大が始まって、映画の企画も延期になったりした。ちょっと悶々としている期間でもありましたが、静かに考える時間でもありましたね

 淡々とした語り口ながらも、内なる情熱が伝わってくる。彼の名前は塚本晋也(63)。モノクロのスタイリッシュでスピーディーな映像が自主制作ながらも話題となった『鉄男』(1989年公開)で、90年代の邦画界にすい星のごとく現れた映画監督です。

 女性の自立とエロティシズムを描き、ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞した『六月の蛇』(2003年公開)や、戦争の残虐さを余すところなく表現した『野火』(2015年公開)では、毎日映画コンクールをはじめとする数多くの映画賞を受賞しました。

 近年は、俳優としても大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』(2019年・NHK)や連続テレビ小説『おかえりモネ』(2021年・NHK)などに出演し、独特の存在感を放っています。

 インタビュー前編では、塚本監督の映画製作についてたっぷり話してもらいました。

※「塚」は塚の旧字体のため、利用機種によっては表示されないことがありますのでご了承ください。

原宿のキデイランドで遊んだ子ども時代。独学で映画の道へ

──塚本監督は渋谷生まれの渋谷育ちということで、どのような子ども時代を過ごされたのか気になります。

「僕が住んでいたのは原宿なんですけれど、ちょっと路地に入ると普通の住宅街だった。確かに、あまり土の地面を見るも機会ないし、街中はほとんどコンクリートで舗装されていましたね。これを言うと都会的な感じになっちゃうんですけれど(笑)、『キデイランド』に遊びに行っていました。当時は今みたいにおしゃれな感じじゃなくて、いわゆるおもちゃ屋さんだったので、プラモデルとか置いてあったんです」

──子どものころは、何に夢中になりましたか?

当時はお小遣いが50円だったけれど、すごく頑張ってお金を貯めて1500円する『G.I.ジョー』の人形を買いました。その人形で遊び倒したよね(笑)。『ウルトラQ』(注:特撮テレビドラマ・1966年放送)にもむちゃくちゃハマりました。今は映像がクリアになってよみがえっていますけれど、僕が高校生や大学生になったときは当時の資料がなかったので、(本当にその作品が)あったのか、なかったのかわからない、夢のような記憶だったんです

──それだけ記憶の中に残っていたのですね。

「そうなんです。『ウルトラQ』の映像が、夢なのか現実なのかわからないけれど、自分の中で潜在的な記憶が残っていて、それが『鉄男』につながっていったんです。映画では『ガメラ』とか怪獣映画が好きで、アニメだと『ルパン三世』にもすごくハマっていましたね」

──アニメはほかに何が好きでしたか?

「『あしたのジョー』はバイブルっていうくらい好きでした。あと、ちょうどテレビが白黒からカラー放送になるときに、『巨人の星』が放送されたんです。あらかじめトイレにも行って、身体もほぐして絶好調な状態でテレビの前にスタンバイしていましたね」

──そこから、映画監督を志すようになったのはいつごろですか?

意識しだしたのは中2ぐらいです。父が8ミリフィルムで映像が撮れるカメラを買ったんです。それを横目で見て、“あれがあれば映画ができるんだ……”って指をくわえて見ていた(笑)。中学生にとっては3分で1500円ほどするフィルムの現像代が高かったけれど、3か月分のお小遣いを貯めて10分くらいの作品を撮りました。8ミリで映画を撮りたいと決めてから、編集機も購入したんです。編集もちょっとずつ覚えていって、物語をつないでいく面白さに気づきましたね」

──映画研究会のような部活には所属されたりしたことはありましたか?

ずっと個人でやっていて、映画関係の部活に入ったことは一度もなかったです。映画に関しては、自分で観るのが勉強だったので、教わったことはないです

『鉄男』(c)1989 KAIJYU THEATER 

──『鉄男』では、監督・脚本・撮影・特殊効果・美術・照明・編集のほか出演もされていますが、すべて自分で担当されたきっかけは何でしたか?

8ミリフィルムで映画を撮っていたときから、ほかに頼む人がいなかったから自分でやったわけなんですけれど……(苦笑)。でも、どのパートもとても面白くて、全部で映画作りだと思っていました。僕にとって『鉄男』が劇場用第一作といわれているのですが、もともと自主映画を撮っていたのが8ミリから16ミリに変わっただけで、やっていることは同じなんです

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