阪神・淡路大震災の被災地で歌った『満月の夕』

──あいみょんさんや、ガガガSPなど世代を超えてカバーされているソウル・フラワーの『満月の夕』(ソウル・フラワーの中川敬とヒートウェイヴの山口洋が共作)はどのようにして生まれましたか?

大阪に住んでいて、隣にある兵庫県であれだけの災害(1995年の阪神・淡路大震災)が起きたのを見て、何か協力やできることはないかなって考えていたんです。メンバーみんな大阪に住んでいたので、被災地のボランティアの人たちと連絡を取って、避難所で演奏を始めたんです。

 アコースティック形態のバンド『ソウル・フラワー・モノノケ・サミット』(以下、モノノケ)として回っているときに、本当は不安な中、みんな楽しそうに踊ってくれたりとか、 “家燃えてもうたんだけれど、火に当たったら暖かった”っていうような自虐的なギャグを言ったりとかね。関西人やから不幸を笑いにしちゃうような感じに、演奏している側が泣きそうになってしまう明るさがあって。そういう経験をしてた時期に、中川が歌詞を書き上げた。当時の風景や匂いが詰まってる歌やから、みんなすごく大切に歌ってくれているし、いろいろなアーティストにカバーされるのは非常に嬉しいですね

──被災された方も、不安の中、明るく振る舞っていたのですね。

震災の日が満月で、その1か月後に最大余震が来るのではないかってみんなが不安がっていた。だから震災の1か月後の満月のときに、また(神戸市)長田区の公園で演奏しようっていうのから生まれた歌なんです。まだ痛い寒さが残る時期だったので、みんな悲惨な状況だったけれど、音楽ですごい笑顔になってくれたのが本当に嬉しかった」

──被災地に演奏をしに行くのは、つらくなかったですか?

「やっぱり(被災者の人達がどんな思いで聴いているか)想像できないじゃないですか。自分の家が震災で潰(つぶ)れて不安なときに、音楽を演奏しに行っても、みんな“音楽なんて楽しめない”って思うかもしれんし。震災のときに思ったのは、それまで僕らは望まれた場所(ステージ)でやっていることに慣れていた。でも被災地でやるときは、誰も僕らのことを知らない。そこにあるのは音楽だけで、それを喜んでもらえている状況は、僕個人としての音楽に対する向かい方が変わるきっかけになりました。音楽の持つ強さに気づいたのがすごく大きかった

奥野真哉さん 撮影/山田智絵

街中に弾丸の跡が残る中で演奏

──フランスではツアーをされていますよね。海外での公演も多いですが、海外で演奏されるきっかけは何でしたか?

「海外に行くときにはモノノケでやっているんです。『ピースボート』(約3か月かけて世界約20か国を訪れる世界一周の船旅)に“水先案内人”というのがあって、船の中で演奏をすると無料で乗船できるんですよ。旅先でもライブができるならやろうってなったんです」

──どこでも演奏できるところから、モノノケは始まったのですね。

「もともとモノノケはさっき話したように阪神・淡路大震災の被災地を訪れる際に電気を使わずに演奏しようと始めたんです。被害がひどかった長田区は、在日外国人や、ウチナーンチュ(沖縄の人)やいろいろな人たちが混在している地域で、インターナショナルな雰囲気なんです。そこで演奏するのがすごく楽しかった。その経験から、モノノケは海外でも受け入れられるのかなって思ったんですよ

2002年、東ティモールの独立祝賀コンサートで演奏する様子

──2002年に東ティモールの独立祝賀コンサートでも演奏されていますね。

「東ティモールは、記念式典の制作にかかわっていた日本のスタッフと協力して出演に至りました。最初の話だと、ザ・フーやポール・マッカートニーが来ると聞いていたので、“行く、行く!”みたいな(笑)。でも実際に行ってみたら、フーのふの字も見当たらなかったです(笑)。でも共演したバンドの演奏力のすごさに驚きました」

──東ティモールでの様子はどうでしたか?

街中とか、もう銃弾の痕だらけ。そういう中で演奏をやったんやけど。当時、僕らの活動にテレビ局の人が一緒に同伴していたんやけど、俺も中川もちょうど彼女ができたばかりだったから、ずっと記者の人の携帯電話を借りて東ティモールから日本に電話していた。そしたら、帰ってテレビ局の人から“電話代が50万円ですよ!”って言われました。すごく問題になったのは覚えています。経費にしてもらいましたが、ひどっ!(笑)

──海外は、観客の反応も違いましたか?

海外は個々の楽しみ方を持っているから、リズムがあるとすぐノる。メロディを一緒に歌うんじゃなくて、一緒になって勝手に歌っている。そういうのは日本では経験ないなって思ったなあ