みなさん、ウォンバットという生き物をご存じですか? オーストラリアに生息している、短い足とずんぐりむっくりのまん丸ボディがキュートな四足歩行の動物です。
【前編】に引き続き、オーストラリア在住で、サンシャインコースト大学 健康・行動科学部でウォンバットの研究に従事している高野光太郎さんに話を伺いました。
前編では謎のモフモフ動物、ウォンバットの魅力について語っていただきましたが、【後編】は、ウォンバットを脅かす疥癬(かいせん)という恐ろしい皮膚病のことや、高野さんが研究している疥癬の治療法について、野生動物たちがさらされている危険など、わかりやすく丁寧に教えていただきました。
(前編→鋼鉄のおしりに、四角いうんち。超かわいい「ウォンバット」ってどんな動物? 研究者に聞く「ふしぎな生態」)
ウォンバットを苦しめている感染症「疥癬」とは
──高野さんは今、ウォンバットを脅かす疥癬の治療法を研究されているそうですが、疥癬とはどんな症状ですか?
疥癬というのは、ヒゼンダニというダニの寄生によって引き起こされる皮膚病の感染症です。世界中で150種類の哺乳類で報告されていて人間も感染します。
日本だと病院や老人ホームなど、免疫力の低い人たちが感染しやすいといわれていますし、野生のタヌキやキツネ、犬猫などの疥癬が報告されています。
──感染するとどうなるんですか?
ヒゼンダニは皮膚の中にトンネルを掘って、皮膚を食べながら卵を産んで増殖していくのですが、そのときのアレルギー反応で強烈なかゆみに襲われると考えられているんです。
ウォンバットが世界でいちばん深刻な疥癬の被害に遭っている生き物のひとつといわれていて、目のまわりに感染して視力を失ってしまう個体もいます。目が見えないので餌を食べることも水を飲むこともできず、強烈なかゆみと痛みに苦しみながらゆっくりと死んでいってしまいます。
──なぜウォンバットだけが甚大な被害を受けているのですか?
ウォンバットは巣穴を掘るんですけど、1か所にとどまるのではなく遊牧民のように8日から10日おきに巣穴を引っ越しながら生息地を替えていきます。ダニは宿主がいないと数日で死んでしまうのですが、特別な湿度と温度の中だと宿主がいなくても最大16日間生きることができるんです。
──その特別な環境というのが、ウォンバットの巣穴の中なんですね。(編集部注:【前編】で、ウォンバットの巣穴の中は真夏でも真冬でも常に10℃~20℃に保たれていると紹介しています)
そうです。疥癬に感染したウォンバットが使った巣穴を健康なウォンバットが使うことで、ダニが巣穴を介して健康なウォンバットに寄生して、どんどん疥癬が広がっていくと考えられています。
手作りの装置を使ってウォンバットたちに治療・予防薬を投与
──そこで高野さんたちは、ウォンバットを疥癬から守ろうと動き出したわけですね。
はい、従来の治療薬では効果持続期間が短く、複数回投薬しなければならないのが課題でした。そこで、より長い予防期間を持ち、一度の投薬でウォンバットを病気から守るブラベクトという薬が新しいウォンバット疥癬の治療薬の候補として研究されることになり、そこに僕が携わらせてもらったというわけなのです。そこから約5年、さまざまな分野のたくさんの人たちの協力もあり、2022年5月、ブラベクトという薬が「ウォンバット疥癬の治療薬」としてオーストラリア政府から認可が下りたんです。
──ブラベクトは野生のウォンバットに、どのような方法で投薬されるんですか?
プラベクトは犬猫のダニの治療・予防薬で、ウォンバットに使用するのは液体を肩甲骨の間に垂らすスポットオンタイプです。
投薬の方法は3つあって、ひとつはウォンバットに直接、滴下する方法。疥癬で保護したウォンバットを保護施設に連れて行くか、その場で麻酔を打って眠っている間に投薬します。
次は大きなスプーンに、長い棒を取り付けてスプーンの中に薬を入れてこっそりウォンバットの後ろから近づいて背中に垂らすという……。
──原始的ですね(笑)。
そうなんです(笑)。ウォンバットは鼻がいいので人間のにおいを嗅ぎつけてしまう。気づかれないために風向きの反対側に立って、忍者のようにこっそり近づいて大きなスプーンで垂らすという方法です。
そしてもうひとつが「ボロウフラップ(Burrow flap)」で、ボロウは「穴」、フラップは「ひらひらしたもの」という意味なんですが、これはアイスクリームのふたを加工した装置です。
オーストラリア人って、家でも高級レストランでも食後のデザートには必ずアイスクリームを食べるほどアイスクリームが大好きな国民で、普通に4リットルのアイスクリームがスーパーで売ってるくらいなんです(笑)。そのアイスクリームのふたを使ってボロウフラップを作ります。
──どのような装置なんですか?
ふたの真ん中に穴を開けて、そこに薬を入れたペットボトルのキャップを差し込んで、ウォンバットの巣穴の入り口に設置します。そうするとウォンバットが巣穴から出入りするときに、のれんのようにフラップがひっくり返って、ペットボトルのキャップからウォンバットの体に薬が垂れるという仕組みになっています。
──うまくウォンバットに投薬できた場合、どれぐらい効果が続くのですか?
犬猫だと3か月の効果があるんですけど、犬と同じ量で1か月は持続することが調査でわかっています。ウォンバットは体が大きいのか皮膚が厚いのか、薬が犬と同じ量でも吸収されにくいらしくて。
それでも1か月間、効果の持続が観測されているので、野生のウォンバットの疥癬を治療するのには効果が1週間しか続かない従来の薬と比較しても、かなり大きな利点になると考えられています。治療のかいあって少しずつ減少傾向にあると思うのですが、データがないので実際のところはわかっていません。
──疥癬に関する研究は、未知の部分がありそうですね。
そうなんです。薬の効果はもちろん、個体数の調査などやらなきゃいけないことはたくさんあるんですけど、ウォンバットはコアラやタスマニアデビルなどの絶滅危惧種の動物と比べると研究費も下りにくいし、人手も足りないのが現状です。
当然のことですが、人間の病気が優先されるし、動物の病気は二の次になるので研究値の低いウォンバットのような動物たちは研究費が下りにくいんです。なので、実際のところ僕はあとどれぐらいウォンバットに携われるのかと思うと、悲しい気持ちになることもあります……。
交通事故で母親を失った「孤児ウォンバット」も
──そこは研究者の苦悩という部分でもあるんですね。また、疥癬のほかにウォンバットに降りかかる災難はロードキル(道路上で起こる野生動物の事故死)による「孤児ウォンバット」という存在もあるんですね。ウォンバットだけでなく、カンガルーやコアラ、タスマニアデビルなど野生動物たちが被害に遭っていて、母親がいなくなってしまう子たちもたくさんいると聞きます。
ロードキルで生き残った子たちの状態にもよるんですけど、例えば一命を取りとめたとしても、今までのように歩いたり食べたりできないような重症の場合はもう動物らしい生活も送れないし、野生に帰ることもできないので安楽死という選択をすることも少なくありません。
ウォンバットの場合、母親の袋の中で奇跡的に生きていた子は、病院に運ばれてレントゲンや血液検査など健康状態のチェックをして、問題なければ保護されます。その後、保護施設か、ボランティアさんのお家に移され、そこで野生に帰るまで育てられます。
──自宅で保護するボランティアさんは大変そうですね。
ボランティアさんのことを“ケアする人”という意味で、“ケアラー”と呼んでいるのですが、本当に大変そうです。ウォンバットって見た目はかわいいけど、小さいころは2時間おきにミルクをあげないといけないし、大きくなったら家の柱を噛んだり破壊しだすので、その野生動物のパワーと向き合いながら、野生で他のウォンバットと同じように暮らせるように育てなければならない。ただ動物が好きだけでは務まらないと思いますね。
生後の7ヶ月の子ウォンバット。
オシリは既にとても硬い。
軽く叩くだけでこの音である。 pic.twitter.com/ycOAm4UY5e— Kotaro 🐨ウォンバット研究🐻 (@kotaro_womb514) October 8, 2022
──高野さんのTwitterで赤ちゃんウォンバットを保護した動画を見たのですが、小さくてぬいぐるみのようでした。
あれは生後7か月ぐらいの男の子と女の子の赤ちゃんウォンバットだったんですけど、男の子のほうは噛みグセがすごくて、僕もしっかり靴下に穴をあけられました(笑)。
野生動物と適切な距離を保たなければ、生態系が崩れてしまう
──高野さんの著書に「野生動物に接近して干渉することは動物だけでなく人間にも悪影響を及ぼす」と書かれていましたが、野生動物との適切な距離の保ち方はあるのでしょうか?
僕は、「人間が必要以上に野生に干渉していいことなんてひとつもない」と思っています。というのも、本の中にも書かせていただいてますが、本来、自然界に暮らす野生動物たちは食べる食べられるの関係の中や病気で生き残れなかった個体も含め、デリケートなバランスの中で生きています。
そのデリケートなシステムの中に人間が入り込み、ある動物に食べ物を与え始めたとしましょう。その動物は一時期は懐いてくれているように見えるかもしれません。でも、それがしばらくすると、人間のことを“エサのなる木”だと見なし始めるかもしれません。そういうふうになってしまったら、エサをくれない人間には攻撃性が増すし、そのままエサを与え続ければ個体数が増えすぎてしまいます。その結果、その地域の生態系のバランスが崩れてしまうこともあるんです。
──野生動物の保護や環境保護のために日本の私たちができることはありますか?
いちばんは知ることが大事だと思います。気候変動や生物の絶滅は世界中で起きています。オーストラリアに限ったことではありません。地球温暖化やいろいろな問題について、自分に何ができるのか、考えたり調べてみたりして、このままだとどうなっていくのかなど、リスクを知ってもらうのが大事なのかなと思っています。
もっと身近な話だと、例えば飼い猫を家の中と外を自由に行き来できる状態で飼ってる人もいると思います。でも絶対に家の中で飼ってほしいんです。家の中ではニャンニャンゴロゴロしている猫たちも、まだ狩猟本能が残っています。外に出た飼い猫や野良猫は野生の小型哺乳類や鳥類を殺すことも珍しくなく、地域によっては生態系に甚大な被害が出ているところもあります。オーストラリアの一部の地域では、自分の飼っている猫が外に出ているのが見つかったら罰金を課せられるところもあるくらいです。
そして、猫にとっても外の世界は危険です。車にひかれてしまうかもしれない、ほかの猫とケンカをするかもしれない、病気をもらってくるかもしれない、それを家に持ち込んで飼い主が感染するかもしれない……。そう考えると猫にとっても人にとっても家の中にいたほうが安全だし、大事なことなんです。
ペットを守ることは、自分たち人間を守ることにもつながり、自然を守っていくことにもつながる。身近で小さなことかもしれませんが、みんながその意識を持てば、もっと大きな規模で自然を守る方向へと僕らは向かっていくことができると思うのです。
(取材・文/花村扶美)
〈PROFILE〉
高野光太郎(たかの・こうたろう)
ウォンバットを愛し、またウォンバットに愛されたウォンバット研究者。 愛知県出身。2012年に日本の高校を卒業後、タスマニア大学理学部動物学 科・同大学院生物化学修士課程修了。 メルボルンでの就労経験を経て、現在はサンシャインコースト大学健康• 行動科学部でさらなるウォンバットの研究に携わる。