「この世界に入って28年。いろいろな方の支えがあって歩いてこられました。きれいごとでもなんでもなく、本当に人に恵まれた。とりわけ最初に僕を見つけて声をかけてくださった、初代マネージャーの細川さんには感謝してもしきれません」
俳優としてさまざまなドラマ・映画に出演するかたわら、ミュージシャンとして自らバンドで活動したり、楽曲制作・プロデュースなどで手腕をふるってきた柏原収史(42)。「役者と音楽の2本の柱で今も続けていられるのは、最初にしっかりと地盤をつくってもらったおかげ」と感謝してやまない相手は、今は亡きマネージャーの細川美由紀さんだ。小栗旬を見いだし育てたことでも知られる細川さんは、2004年にまだ40代の若さで亡くなっている。
その彼女が1993年11月、第6回ジュノン・スーパーボーイ・コンテストの会場で、グランプリを獲得した兄・柏原崇の応援にきていた収史に注目したのが、すべての始まりだった。当時、ふたりは山梨県甲府市に住む、普通の高校2年生と中学3年生だった。
兄・柏原崇と同期デビュー
収史が具体的なエピソードを交えて振り返る。
「もともと兄貴は芸能界にまったく興味がなくて、学校の先生を目指して勉強ばっかりしていたんです。JUNON(ジュノン)には母親の友達が兄貴の知らないところで推薦したんですが、案内のハガキが届いたときも “なんだコレ! 俺はぜったい行かない” と言ってたくらいで。
でも当時ちょうど “行列のできるラーメン屋” というのが出始めて、僕と兄貴がテレビを見ていたら八王子の『みんみん』というラーメン屋さんがすごく美味しそうだったんですよ。それで母親が “じゃあ車で行けば八王子も通るし、みんみんに寄っていこう” って言ったとたん兄貴がピクッとなって(笑)、 “マジで? みんみん行けるなら行く” と。で、“僕も行きたい!”ってついていったんです」
男の子オーディションの元祖として知られるジュノンボーイだが、まだ第6回とあって原宿クエストホールで開かれた選考会も、のどかな雰囲気だった。
「客席で普通に“お兄ちゃん、頑張れ〜!”ってやってましたから(笑)。その様子をマネージャーの細川さんが見ていたみたいで、結果発表前の休憩時間にうちの母親の隣の席に来て “6番の方のご家族ですよね?” と。“6番の方はグランプリをとって、いろいろな事務所から声がかかると思います。でも、私はそこにいらっしゃる弟さんに興味があります、と」
そのとき、収史はロビーに遊びに出ていて、そんなやりとりがあったとはまったく知らなかった。細川さんが予想したとおり、崇はグランプリに輝いてさまざまな事務所から誘いを受けるのだが、甲府の自宅に帰ってから「実は収史にもそういう話があって」と伝えられたのだという。
細川さんが勤めていた事務所はトライストーン・エンタテイメントといって、その年に設立されたばかりだった。今でこそ小栗旬、田中圭、綾野剛、坂口健太郎らを擁する大手プロダクションだが、当時は小さな所帯で第一期生として迎えられることになる。
「事務所に所属するとか、かしこまった話はなかった気がします。僕はまだ14歳でしたが、とにかくギターに熱中していたので “役者と音楽、両方やれるなら……” “もしかしてプロのミュージシャンになれるってこと?” なんて夢を見ていましたね。
その後しばらくして “ドラマの話があるから、東京に来ませんか” みたいなことを母親伝えに聞いて、単純に “東京に遊びに行けるんだ” と。そこで連れて行かれたところが、TBSの『人間・失格』のオーディション会場だったんです。
5〜6人ずつ呼ばれたんですけど、僕のグループにはKinKi Kidsの2人もいて、 “ジャニーズ事務所から来ました堂本光一です” “堂本剛です” って。すごくキラッキラッ輝いていました。この2人が主演に決まり、僕はクラスの同級生の役で残って。そこから東京と山梨とを行ったり来たりする生活が始まりました」
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一方、兄・柏原崇は各プロダクションの争奪戦の末に「メリーゴーランド」に所属が決まり、同じく1994年夏クールの連続ドラマ『青春の影』(テレビ朝日)で俳優デビュー。1995年3月に公開された映画『Love Letter』で一気に注目され、さらにドラマ『白線流し』『イタズラなkiss』と話題作への出演が続いた。
「兄貴はすぐに人気者になったので、背中を見ながら追いかけた感じでした」
収史も映画『あした』『ゲレンデがとけるほど恋したい。』、深夜ドラマ『ねらわれた学園』などに出演するが、どこか暗中模索の日々でもあった。
「やっぱり “自分からやりたくて入ったわけじゃない” という気持ちがあったんでしょうね。当時は今みたいにやさしい現場ではなかったし、できなかったら大声で怒鳴られましたから、もうやめたいと思うこともいっぱいありました。それでも細川さんが “収史、この役決まったよ!” と、うれしそうにしている顔を見たら、自分も子どもながらにうれしくなる。その連続でやってこられた気がします」
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手抜きした映画でほめられた!
高校を卒業して上京。俳優業のかたわら、収史がギター、崇がボーカルの4人組ロックバンドNo’whereを結成するなど活動の幅が広がったころ、今でも忘れられない映画に出会う。黒木和雄監督の『スリ』(1999年撮影、2000年公開)だ。収史は主演・原田芳雄が演じる初老のスリに弟子入りする若者の役に抜擢(ばってき)され、ひときわ異彩を放つ金髪のまま演じている。
「僕が勝手に染めちゃったんですけれども、まだ当時はあまり金髪の人はいなかったんですよ。globeのKEIKOさんとラルクのHYDEさんぐらい(笑)。当然、事務所も細川さんも反対でしたが、 “俺はロッカーだから” みたいなヤンチャな感じで。それでも細川さんは一生懸命、映画の役を探してきて、黒木監督に会えるようにしてくれたんです」
黒木和雄監督は『竜馬暗殺』『祭りの準備』『TOMORROW/明日』などで知られる名匠。
「今でも覚えていますが、監督は終始ずっとニコニコされていて。僕は “この金髪はちょっと直したくないんで” ぐらいの生意気な態度だったんですが、 “うんうん。君はそのままでいいんだよ” と起用してくださったんです。『スリ』では金髪でいいと言われたこともあって、台本も “現場で覚えればいいっか” ぐらいの適当なノリで。それで本当に変な話、これまでの作品の中でいちばん手を抜いたのが『スリ』なんです」
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ところが、その『スリ』で「日本映画批評家大賞」の新人賞を受賞する。
「本当に驚きました。“え、なんで? みんな喜んでくれているけれど、なんでなんで!?” “今まで一生懸命やればやるほど怒られていたのに、いちばん手を抜いたもので評価されるって、芝居ってなんなんだよ!?” と。結局、芝居は俳優の自己満足よりも、見た人がどう感じるかなんでしょうね。
しかも『スリ』では原田芳雄さん、石橋蓮司さん、風吹ジュンさん、香川照之さんと、すごい先輩方ばかりの中で若い僕が普通にいたら緊張しまくっていたと思うんですが、当時はNo’whereでバンドデビューした直後だったこともあって、いい意味で適当にやれた。『スリ』をきっかけにだんだん芝居が好きになり、賞をいただいてさらにお仕事をいただくようになりました。なので、すごく思い出深い、思い入れのある作品ではあります。それにしても黒木和雄監督には何が見えていたんだろうっていまだに不思議で。あらためてお聞きする機会のないまま、監督は亡くなってしまったんですけれど」
黒木和雄監督は2006年、75歳で逝去。
マネージャーの細川美由紀さんとのつらい別れもあった。2004年11月27日、まだ40代の若さだった。その前年、収史は10年間所属したトライストーン・エンタテイメントを離れて、兄・崇と同じメリーゴーランドに移籍している。そこに届いた訃報だった。
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恩人マネージャーの「遺言」
「事務所を移籍したのは、いわゆるケンカ別れだったんです。細川さんが重い病気というのがわかってからも、僕はずっと一緒にやっていこうと思っていたんですけど……、どういうわけか僕がやろうとすることに細川さんがいちいち反対するというか、ケンカを売られた感じになって。 “もういいよ、俺やめるよ” みたいな流れになって。でも、亡くなってだいぶたってから知ったのですが、それも細川さんの親心でした……」
細川さんはシングルマザーとして思春期のひとり娘を育てるかたわら、自らが発掘し育てた収史と小栗旬に深い愛情をそそいでいた。病気が進行し覚悟を決めた細川さんは、収史の身柄を柏原崇が所属するメリーゴーランドの森本精人社長に託したいと考えた。「でも、収史は優しいから動かないと思う。だから、私から突き放すようなことをします」と言って、わざと煙たがられるような態度をとっていたのだ。
細川さんは、芸能界の仲間にも “遺言” をのこしていた。
「当時マネージャー会といって、いろんな事務所の6人ぐらいで定期的に集まる会があって、そこにいた人たちにも僕は個人的にお世話になっているんですけど、“美由紀ちゃんは最後まで本当に気にしていたんだよ” と言われました。
亡くなる少し前、いよいよもう長くないというときにマネージャー会があって、病気で何か月も欠席していた細川さんが久しぶりに参加したそうなんです。2階のお店で階段も上がれない状態だったので、おんぶされて店まで入って……。そのときに言ったのが “もしも私に何かあったときには、娘の彩、旬、収史。この3人は助けてあげてほしい” と。それを言いにきたじゃないですけど、店には30分もいられず、またおんぶされて下まで降りて帰った日が最後だったそうです。
もう僕が事務所を出てからなのに、最後まで気にかけてくれていたというのには、本当に感謝しかありません。何も知らずに “じゃあ、やめるわ” なんて言ってしまった後悔は残っていますけど、きっと向こうで笑ってくれていると今も相変わらず甘えている自分がいます」
収史がトライストーンに所属したのはちょうど10年間。メリーゴーランドに移籍してからは18年になる。
「メリーゴーランドの森本社長には最初は兄弟でお世話になり、兄貴が事務所を離れてからもずっと、僕がやりたいことを認めて応援してもらっています。細川さんは亡くなってしまいましたが、デビュー前から僕らを知る社長のもとで、ここまでやってこられました」
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死ぬまで「役者」を続けていく
俳優としての最新作は11月12日に全国公開された映画『信虎』(金子修介監督)だ。2021年は武田信玄の生誕500年にあたるが、信虎はその信玄の父。甲斐の国を統一し甲府の礎(いしずえ)を築いた国主だ。
「山梨県の出身者として『信虎』にお声がけいただいたのは本当に光栄です。特に甲府の駅前にある武田信玄の像には思い入れがありますし」
懐かしく思い出されるのは、デビューから高校卒業までの3年だ。
「甲府駅から特急あずさに乗って東京に通った日々は、僕の中では思い出深いし、大変だったし、芝居がうまくできなくてつらかったということもあったし。
その出入り口にいつもあるのが信玄像でした。あそこまで母に車で送ってもらって電車に乗って、帰ってくるときもあそこの前で待ち合わせして。いまだにあの像を見ると何か胸がキュッとなる。いまの言葉だと “エモい” というんですか(笑)。まさにエモーショナルな気持ちになるというか」
映画は戦国時代が舞台だが、収史が演じるのは徳川幕府の5代将軍・綱吉に側用人として支えた柳澤保明(のちの大老格・柳沢吉保)。およそ100年後の江戸時代から、甲府にゆかりのある保明が信虎の生涯を振り返る設定で、映画全体のキーパーソンを演じている。
「完成した作品を見て驚いたんですけれども、エンドロールでは僕の名前がトメ(出演者の最後にクレジットされる重要な役割)にあって。トメというのは僕は初めてなんじゃないかな。自分もそういう年齢になったんだなと、感慨深かったです」
デビューから28年。男盛りの年齢を迎え、まだまだ歩みを止めるつもりはない。
「役者って続ける根性さえあれば、続けられる仕事だと思うんです。50歳には50歳の役があるし、60歳には60歳の役がある。
それに、僕は今でも亡くなった細川さんに手を合わせたりしていますが、ずっと見守ってくれているような気がするんです。僕が恩返しできるとしたら、お仕事をいただけるかぎり、一生役者を続けていこうという思いがあります」
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※後編は『柏原収史、40代を迎えて大きな決断。「最大のピンチ」をチャンスに変える』
(取材・文/川合文哉)