20年以上のロングランで、観客を魅了してきたミュージカル『ライオンキング』
その舞台に初演時から立ち続けている“ベテラン”が語る作品への思いとは──。
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今年9月、劇団四季の新たな専用劇場『有明四季劇場』がオープン。こけら落としを飾ったのは『ライオンキング』。日本通算上演回数13123回(10月17日現在)を数えるディズニーミュージカルで、この新劇場を舞台に無期限ロングラン上演を再開した。
「新しい“小屋”だとやはり気持ちも引き締まりますね。作品もブラッシュアップして進化させていきたい」
と話すのは、物語の中で進行役となる“狂言回し”のヒヒの老人・ラフィキ役の青山弥生さん。日本初演オリジナルキャストであり、開幕から20年以上にわたり演じ続けている。
『ライオンキング』のブロードウェイ初演は1997年。日本では1998年に劇団四季が初演し、以来東京、大阪、福岡、名古屋、札幌と各地で上演を重ねてきた。
日本初演時のオーディションでラフィキ役をつかんだ青山さんだが、思ってもみなかった抜擢(ばってき)だったと当時を振り返る。
「日本初演の前にブロードウェイに『ライオンキング』を見に行きましたが、演じているのは大柄の役者さんばかり。身長が低い私には絶対に無理だ、私にできる役はないだろうなと思っていたんです。
ですから、オーディションに受かったのは夢のようでした。オーディションは一次が劇団内の審査で、二次では演出家のテイモアさんが審査に加わりました。浅利慶太先生から“ラフィキ、ダブルキャストで決まったよ!”と言われたのを今でもはっきり覚えています」
青山さんの母は元タカラジェンヌで、自身も幼少のころから日舞を習い、大学では声楽を学んだ。気づけば芝居に魅(み)せられ、なかでも彼女の心を捉えたのが劇団四季のステージだった。
「主役だけでなく、ダンサーなどのアンサンブルまでひとりひとりが輝いて見えました。私は身体が小さいからお姫様役ができるわけじゃない。だけど主役でなくてもいい、セリフがなくてもいい、あの空間に立っていたいと思ったんです」
役を演じるときのパワーの源とは
劇団四季研究生を経て、1981年に20代で初舞台を踏む。しかし小柄ゆえに、当初は演じられる役柄も限られていた。ラフィキ役に抜擢されたのは40歳のときで、役者人生の大きな転機になったという。
「最初はもう必死で、いかに自分がこの役を演じられるかということしか頭になかったですね。ラフィキはヒヒのおばあさん。当時は私もまだ若かったので、動きがお年寄りに見えるよう10キロの重りを両腕両脚にそれぞれ4か所つけて稽古をしてました。今の年齢になってはもうそれも必要ないですけどね(笑)」
広大なアフリカ・サバンナの大地を舞台に、若きライオンの王・シンバの成長を描く作品。物語の中ではシンバを導く、重要な役割で歌唱曲もパワフル。観客を一気に物語の世界へと運んでいく。
ラフィキの衣装はアフリカのビーズをふんだんに使った贅沢な仕立てで、総重量は6.6キロ。身につけるだけで体力が奪われそうだが、彼女の歌声はエネルギーに満ち、アフリカの大地で逞(たくま)しく生きるラフィキの姿を鮮やかに体現していく。一体そのパワーはどこから湧いてくるのだろうか。
「エネルギーって出さないと入ってこないんですよね。出し惜しみをしていると出てこない。何よりこの作品のベースには大地や木、空といったものがあって、ラフィキもそうした大きな見えない何かに守られている感じがします」
本番の日は、ウォームアップにミーティング、そして自らメイクを手がけ出番に備える。
「劇団四季ではどの演目も基本的に役者が自分でメイクをします。ラフィキのメイクは線の角度や位置、使う色など、すべて細かく指定されていて、それはどのキャラクターも同じ。今ではメイクにもすっかり慣れて、30分ほどでできあがります」
初演から23年間、数え切れないほどラフィキとして舞台に立ち続けてきた。忘れられない公演も多く、過去にはこんなハプニングも──。
「もう20年近く前になりますが、セリが下がる演出でそのまま上がらなくなってしまい、いったん幕を下ろしたことがありました。急遽(きゅうきょ)“ただいま舞台機構のトラブルがあり……”とお伝えし、40分もの間お客さまがロビーで待っていてくださった。再び幕が開いたとき、ラフィキの姿で“何だったのだこれは!”と言ったら、みなさん笑って拍手してくださって。
今では笑い話にできますが、ひとつ間違えば大きな事故につながります。こういったトラブルが起きないよう、毎日スタッフが入念にチェックしてくれています」
飛行機の窓の外で起こった“奇跡”
2012年にはブロードウェイで開催された15周年記念公演に日本代表キャストとして出演。世界6か国のラフィキたちとともに舞台に立ち、日本語でビッグナンバー『サクル・オブ・ライフ』を歌っている。
「各国のラフィキたちは、みんなキュートでパワフルで母性にあふれていました。英語の会話に私が置いていかれないように気遣ってくれたり、みなさんがすごくよくしてくれて……。やっぱりラフィキを演じる“同士”の精神というものがあるんですよね」
奇跡が起こったのはその帰路。飛行機の中で思いがけない光景を目にしたという。
「渡米の前に父を亡くしたんです。父が見に来ていたら喜んだだろうなと考えていたら、涙が止まらなくなってしまった。CAさんに“どうかなさいましたか”と聞かれ、“実は……”と話したら──」
CAの「窓の外を見てください」の声に従い、目を向けたとき、
「オーロラが見えたんです。CAさんいわく“私たちはこの便に何回も乗っているけどこんなことは初めて”って。窓の外のオーロラは、まるで作品のワンシーンのように広がっていました。これはきっと『ライオンキング』が見せてくれたんだと、そうとしか考えられませんでした。
大切な人を亡くすという経験を経て、私自身作品に対する考えがより深まっていきました」
生命の連環や親子の絆と、作品に流れるテーマは深い。またラフィキは呪術師としてその象徴的な役割を担う。
「舞台はアフリカですが、日本でいうなら神事に仕える巫女(みこ)のようなもの。作品を貫くテーマは日本人ならではの死生観に共鳴するところがあると思います。浅利先生が書かれた訳詞にもそれが表れていて、この世界観が私は大好き。エルトン・ジョンが作曲した『サークル・オブ・ライフ』などの素敵な楽曲と相まって、本当に素晴らしい作品だと思います」
入団して42年。劇団でも大ベテランの存在だが、「またラフィキに選んでいただいた。キャスティングされて本当にありがたい」と真摯(しんし)な姿勢で舞台に臨む。彼女にとって舞台とは何なのか、そこに立ち続ける理由とは?
「やっぱり舞台に取り憑(つ)かれちゃったんですよね。役者はもちろんスタッフもみんなそう。人の役に立ちたいと願い、そして生きていて、舞台でお客さまに気持ちが届いたと思える瞬間がうれしい。だから舞台はお客さまがいないと決して始まらない。
劇場というのは同じ場所で同じ何かを味わい、互いに敬意を払い合う空間だと思っています。私たちもアウトプットするだけでなく、お客さまからインプットさせてもらえる。それで“よし、明日も頑張ろう!”って思えるんです」
『ライオンキング』の上演回数は国内演劇史上最高記録を誇り、今なお新劇場で日々更新を重ねている。この記録ははたしてどこまで続くのか。
「私自身は1日1日必死で生きてるだけで、明日のことはわからない(笑)。でも作品はこの先もきっと続いていくと思います。だって、優秀な後輩たちがたくさんいますし。
お客さまも、小学生のときに初めて見にきて、大きくなって彼女と一緒に見て、今度は父親になって子どもを連れて見にきた──。そんな作品なんです。今はただ『ライオンキング』という素晴らしい作品をひとりでも多くの方に見ていただきたいです。この作品を、もっと長く残していきたいという思いで、日々舞台に立ち続けています」
(取材・文/小野寺悦子)
《PROFILE》
青山弥生 ◎1981年『嵐の中の子どもたち』で初舞台を踏む。『ライオンキング』『キャッツ』『マンマ・ミーア!』などに出演し、幅広い役どころを演じ分けている。