再開発で高層ビルが立ち並ぶ渋谷駅から5分ほど歩いたところにあるライブハウス『渋谷La.mama』(以下、ラママ)。音楽やお笑い好きなら、一度はその名前を聞いたことがあるかもしれません。マンションの階段を降りて地下の扉を開けると、そこは夢を追う若者たちがステージに立つ45坪の空間。
1982年オープンのラママは、今年で設立40周年。JUN SKY WALKER(S)、Mr.Children、THE YELLOW MONKEYという日本の音楽シーンを牽引してきたバンドや、近年ではあいみょん、Suchmosも出演しました。
音楽にとどまらず、無名の芸人が出演する『ラ・ママ新人コント大会』など、数多くのミュージシャンや芸人がこの舞台から羽ばたいています。今回は、ラママの創設者でもあり代表を務めるはたの樹三(たつみ)さんに、ラママの歴史について語ってもらいました。
俳優を目指して18歳で上京。芝居仲間が出られる舞台を作る
──はたのさんは、ラママを設立される前は俳優を目指していたそうですが。
「高校を出たら東京行くぞって感じでしたね。俳優の学校に通うために鳥取から出てきました。昔は一度故郷を離れたら、錦を飾るまでは地元には帰らないぞっていう覚悟があった(笑)。トイレまでぎゅうぎゅう詰めの列車に乗って上京したけれど、泊まる場所がないんで、先に上京していた姉を頼ったんです。でもすでに姉の家には兄がいたので、僕はすぐに住み込みの新聞配達の仕事を始めました」
──上京してからは演技の勉強をしながら、バイトをする生活でしたか?
「俳優の仕事を優先しながら、いろいろなバイトをしましたね。石焼き芋売りのバイトをしていたときなんて、“焼き芋~“って言うのも発声練習みたいにやっていましたよ(笑)。結局、養成学校には3年通って、それからミュージカルをやる劇団に入ったんです。俳優時代は、合計700ステージくらい出演したと思います。でも主宰者がワンマンな劇団だったから、歯向かったらクビになっちゃったんです(笑)。それから渋谷で『Show Boat(ショーボート)』というミュージカルをやるショーパブを始めました。それがラママの前身です」
──『ショーボート』をオープンされたときはおいくつでしたか?
「27歳か、28歳くらいでしたね。兄貴がやっていた不動産屋を手伝っていたときに、この場所が売り物件として出たんですが、売れずに残っていた。それで、ここに芝居ができる環境を作ろうって思って大家さんに直談判をして、賃貸として契約したんです。小劇団の役者が、劇団が解散すると食えないから、みんな田舎に帰ってしまう。いい役者もいるのに……って悔しい思いから経営を始めました。でも、お客さんは3人とか4人しかいないのに、出演者が十何人とかいて、製作費がかかりすぎたために1000万円以上の借金ができたんですよ」
──20代で1000万円はかなりの金額ですね。そこからラママをオープンされたのですよね。
「電気代なんか7か月分溜めていましたね(苦笑)。でも電力会社も電気を止めずにいてくれたり、周りのみんなが続けるために協力をしてくれたんです。ショーボートは閉店したのですが、あらゆるジャンルを扱うライブハウス『ラママ』として再スタートしました。そのころ、たまたま恵比寿にあったライブハウスがつぶれて、機材を安く譲ってもらえたんです。あとは床のタイルなども自分たちで貼ったり、ラママの内装はほとんど手作りなんですよ」
──当初から、バンドが出演するようなライブハウスだったのですか?
「ラママはライブハウスですけども、花道があるし、ステージも段差があってせり出しているので、ミュージカルや演劇にも対応できます。僕は浪曲や津軽三味線も聴くし、クラシックも聴くし、ジャンルにはこだわりがないんです。そういう意味で、ラママもジャンルには一切、垣根はつくらない。その代わり、ラママ側はどんなものでも受け入れられる体制にしておこうと思っているんです」
ニューヨークにある劇場がラママの名前の由来
──どうして『渋谷La.mama』という店名にしたのですか?
「ニューヨークに『ラ・ママ実験劇場』という有名な劇場があるんですよ。元ファッションデザイナーのエレン・スチュアートさんという女性が1962年に設立したのですが、最初は小さな劇場だったのが、のちに3劇場にまで広がった。最初はエレン女史に黙ってラママと名付けたのですが(笑)、あるとき、西武百貨店の担当から電話が来たんですよ。“今度エレンさんが来日するんですけど、はたのさんに会いたいと言っている”って言うんです。店名の許可をもらうのにちょうどいいかなって思って(笑)、“ぜひ会いたいです”って返答しました。エレン女史に観てもらうために、和太鼓や勅使川原三郎(注:日本の舞踏家)をブッキングしたんです」
──日本のラママを訪れたエレンさんの感想はどうでしたか?
「ちょうどエレン女史が来たときに女性バンドが演奏していて、扉を開けるとすさまじい音がブワッときた。最初はたじろいでいたけれど、次第に態度が変わったんです。彼女も手作りで劇場を作ってきた人だから、ラママが持つ“肌の温かさ”みたいな感じが伝わった。その後も、和太鼓の演奏を見て喜んでいたから、“ラママって名前を使ってもいいですか?”って聞いてみたんです(笑)。そうしたら“いいわよ”って快諾してくれて。それからはエレン女史は東京に来ると必ずラママに寄ってくれました」
──表現する場所を見て、情熱が伝わったのですね。私も長年ライブハウスに通っているのですが、騒音問題などで苦労されている話をよく聞きます。渋谷にあるラママは大丈夫でしたか?
「はい、はい、はい。騒音はマンションの管理組合(注:ラママはマンションの入った建物の地下1階にある)にもう謝って、謝ってですね(笑)。今はラママがどういう場所か理解してもらえているからそんなにひどくはなくなったけれど、昔はもう“出て行け!”って感じでしたよ。それでよく40年近くもやっているよね……」
──中でも大変だったトラブルは何でしたか?
「書けないようなこともいっぱいあるけれど(笑)。ひどいのはね、あるときマンションの入り口にカバンがポツンと置いてあったんですよ。何だろう、怖いなって思っていたら、次の日にテレビのニュースを見ていたら画面に見慣れた景色が映っているんです(笑)。どうやら、爆弾が置かれていたんですよね……」
──(絶句)。めったにない経験だと思いますが……。そのような周辺環境でもラママを閉店しようとか、移転しようとは思わなかったんですか?
「男って一度決めるとね、辞めないんですよ。その後、30年近くはトラブルはなかったですからね。でも火事のときは参りましたね」
──火事ですか!?
「放火されたんですよね(注:2007年12月23日未明、不審火によって火事になった)。フロア内もブワーッて一面、煙まみれになったんです。裏手の楽屋口から火が出ているのがわかったから、慌ててビルから消火器を持ってきて消火活動をしたんだけれど、消火器って数秒しかもたないんですよ。扉の向こう側には真っ赤な火が燃えているから、そこに向かって消火しようと思ったけれど、防火扉は外開きだからこちら側に開かないんです。でもそのおかげでフロア内は焼けずにすんだんですけれど……」
──館内に煙が充満したり大変だったのではないですか?
「電気系統や空調設備がダメになってしまったり、壁にも煤(すす)がついたりしました。でも火事の次の日はクリスマスイブにもかかわらず、ラママに出演したことのあるミュージシャンやスタッフが駆けつけてくれたんです。3日間で延べ200人くらいかな。みんなが片付けを手伝ってくれたりしたのが心強かったですね」
──出演者にとっても、大事な場所なのですね。
「火事以外にも、ライブハウスは震動問題が大きい。昔はラママの上階に喫茶店があったのだけれど、ライブ中はテーブルの上のコーヒーカップが震動で揺れたって言うんだよね(笑)。しょうがないから、ステージの天井全部に砂袋を入れたんですよ。200万円くらいかかったかな」
──本当に、自分たちで工夫された内装なのですね。
「いろいろあったけれど、ラママはね、“文化”だからね。僕がサングラスかけているのは、こういう場所柄だと周りから馬鹿にされるからね。嫌がらせとかされても、“じゃあ俺も負けないやつになってやろう”って思ってかけているんだよね(笑)」
ステージ上で禁止行為! 数々の伝説を生んだステージ
──ラママでは、全裸になるパフォーマンスで数々のライブハウスを出演禁止になったオナニーマシーン(以下、オナマシ。音楽雑誌の編集長だった故・イノマーさんがボーカルを務めた過激なパンクバンド)が定期的にライブを行ったり、峯田和伸さんがボーカルを務める銀杏BOYZもよく出演していました。私はオナマシと銀杏が出たライブをラママに観に行って、ステージから投げられたティッシュや生ケーキまみれになったことがあります(笑)。出演に基準などないのですか?
「オナマシはステージ上でぬるぬるになるローションをまいたりするから、そのローションが引火しないか、ローションに浸したティッシュに火をつけて確認したんだよ(笑)。引火はしなかったんだけれど、その場面をメンバーに見られて“何しているんですか?”って言われたり(笑)。
過激なことで言えば、あるミュージシャンがステージ上でウ〇コしたのがすべての先駆けだね。ステージ上で放尿したり、炊飯器を持ちこんでご飯の上にウ〇コしたり、ドラム缶を20〜30個持ちこんで叩き回ったり……。ちょうどパンクバンドが流行(はや)ってきた頃ですかね」
──ラママではNG行為はなかったのですか?
「法律さえ犯さなければ何してもいいと思っているんだよね。ステージ上で行われることはすべて表現の一環ならいいって思っている。若い人たちには、やりたいことをやりたいようにやりなさいと伝えています」
──かなりギリギリだと思いますが……。その何が起きるかわからない非日常がライブハウスという空間かもしれませんね。
「以前はね、新宿LOFT(注:BOOWYなどを輩出した老舗のライブハウス)やラママに出ることが、バンドマンの間で売れるための1つの基準になっていたんです。でも僕はそういう周りのことはあまり気にならなくて、あらゆるジャンルのトップの人をステージに出したいと思っている」
──Mr.ChildrenやTHE YELLOW MONKEYもラママに出演していましたが、ブレイクしたミュージシャンは何が違いましたか?
「正直に言うと、みんな似たり寄ったりだね。ただ、何とか世界に飛び出して活躍するバンドが出てくれば、状況は変わると思うんだけど」
──そうなのですか!?
「何千という出演者がいるから、それぞれに思い入れを持つと大変っていうのもあるけれどね。ただ、BOOWYの氷室京介はカッコよかったよ。でも海外だと、オーディションを勝ち抜かなければならなかったり、売れるために必要なレベルがある。でも日本の場合は、“なんでこいつが?”っていうレベルでも売れることがあるからね(苦笑)。日本って、その時代、時代にマッチしたものがブレイクする風土があると思う」
ウッチャンナンチャンや爆笑問題、オードリー。若手芸人の登竜門
──ラママといえば、若手芸人の育成の場として『ラ・ママ新人コント大会』(1986年スタート、現在も継続)も有名ですが、このイベントはどうして始められたのですか?
「ある日、ラママの前にいかつい風貌の男性が立っていたんですよ。その男性から“あなたがはたのさん?”って声をかけられた。彼は石井光三オフィスの社長(故・石井光三さん。タレントとしてテレビなどにも出演していた)だった。石井社長が、“コント赤信号(メンバーは渡辺正行、ラサール石井、小宮孝泰)がストリップ劇場に出ているけれど、きちんと芸を見てもらえないから、出られる箱を探している”って言うんだよね。そこで彼らが出られるようにと、毎月1回イベントを組んだんです。コント・レオナルド(故・レオナルド熊さんと石倉三郎のコンビ)やコント赤信号、ダチョウ倶楽部が出ていたのだけれど、それが『ラ・ママ新人コント大会』の原型となるイベントの始まりだね」
──そこから無名の芸人が出演する『新人コント大会』にどのようにしてシフトチェンジしていくのですか?
「月1回のペースで1年半くらい続けて、石井社長が“ネタが尽きちゃった”って言うんだよね。そこでナベさん(渡辺正行)が、“せっかくやってきたのだから、私に任せてくれ”って言って始めたんだよね。ナベさんが司会をして、若手芸人が事務所の垣根を超えてフリーに出演するようになった。こ
──入れ替わりの激しいお笑い界で、イベントが長く続いている理由は何だと思いますか?
「ナベさんがね、30年以上ほとんど休まなかったんだよね。芝居があるときだけ休んで、代わりに爆笑問題が司会を務めたりしたけれど、基本的には現在までずっと続けている。僕からは演者にアドバイスをしたことはない。下手にアドバイスをして枠にはまるよりも、自由にやってもらいたいって思っているからね」
──自由な空間といえば、バーカウンターのメニューにソフトクリームがあるのは珍しいですよね。
「あれは、言い出しっぺはHEESEY(ヒーセ/廣瀬洋一。THE YELLOW MONKEYのベーシスト)。彼がアイスクリームがあったほうがいいって言ったからかな。僕もね、なんでライブハウスに冷たい食べものがないんだろうって思っていたんだよね。だってさ、ライブハウスって暑いでしょ。誰か一人が食べ始めると、みんな欲しがるし(笑)」
──ラママの40周年の歴史の中で、つらかったことはありましたか?
「最近のコロナ禍はね、つらいけどどうしようもできないよね。ラママのスタッフは全部で11人くらい。東京都の最低賃金の時給も上がったし、経営的には大変なんだけれど……でもこれを乗り越えたらあとはもうツイていると思うんです。40周年のイベントは、できるなら来年やりたい」
──演者たちにとって、ラママはどんな場所だと思いますか?
「歴史があるぶん、アマチュアから見たら敷居が高くなってしまった感じがするね。でもまた昔のような雰囲気に戻して、プラスの部分を残しながら他のライブハウスとはまったく違う場所にしたいですね。
僕が子どものころ、クリスマスに買ってもらった絵本に、たくさんの羊がばーって空を飛んでいる銅版画があったんです。子ども心に“羊が飛ぶわけがない”ってわかるんだけれど、“もしも夢と思いがあれば、羊だって飛ぶことができる”って感じて。僕はそれを『夢翔』って名付けました。夢を持っていれば、羽が生えて飛べるよって」
──素敵な言葉ですね。
「あとはもうケセラセラ。躊躇(ちゅうちょ)しないでやり切って、結果がどうであろうとケセラセラの精神だよね」
(取材・文/池守りぜね)
■渋谷La.mama
渋谷区道玄坂1-15-3 プリメーラ道玄坂B1