2021年に国内市場規模が70億円を超え、今後100億円以上の市場規模が予想される「e-Sports」。2023年にはFPSゲーム『VALORANT』の公式国際大会“VCT Masters 2023”の日本開催が決定し、今後日本のe-Sportsにおける躍進に期待が集まっている。
今回はそんな大会に携わり、ゲームキャスター(ゲームの実況・解説を行う人)として活躍するOooDa(オーダ)さんに取材。ラッパー・映画監督を目指していた過去、自身が感じたゲームの魅力、キャスターとしての道を歩み始めたきっかけに迫った。
オタクが苦手だったOooDaさんがオタクになるまで
──OooDaさんは現在、「ゲームキャスター」として活動されていますが、もともと学生時代からゲームが好きだったんですか?
「そうですね。僕は活動のテーマとして“好きなものに自信を持つこと”を大事にしているんですが、もともと高校生から20歳くらいのときは、好きなことに傾倒しているオタクっぽい方が苦手だったんですよ。
当時は陽キャではなかったんですが、ヒップホップが好きでラッパーになりたくて“自分はチャラい奴だ”ということに謎に誇りを持ってたんです。“オタク文化? 何それ?”って思ってしまっていたんですよね……」
──意外ですね。そこからどうやってゲームにハマっていくのかが気になります。
「いま考えたら本当に視野が狭かったんですよね。それで10代のころは大阪でラッパーを目指していたんですけど、20歳のときに人間関係で悩んで引きこもってしまったんです。もう周りとの連絡手段をシャットアウトして家から一歩も出ない、みたいな。
そんな生活のなかで“このままじゃダメになる。何かを変えたい”と。それで“自分がやりたいことって何だろう”って、部屋でずっと考えていたんですね。その中で映画を撮ってみたいなと思いました」
──「就職する」という選択肢はなかったんですね。
「18歳で高校卒業して建築の会社に就職したことがあるんですが、まったく続かなかったんです。そのとき“自分は好きなことしか続かない”と思ったんですね。それで僕は幼少期から映画が好きだったので“映画監督になろう”と考えて、上京しました。
そこでアーティストのMVを作る映像制作会社で働き始めました。下っ端でしたけど、木村カエラさんとか、サカナクションさんのMVにちょっとだけ関わったり……」
──なるほど。思い切りましたね。
「何か作って自分を表現することで、自分の存在価値が見えてくるだろうと思ったんですよ。
それで上京して住んだアパートの隣の部屋の男の子と仲よくなったんですけど、その子がもうね、完全なるオタクだったんです。アニメ大好き、声優大好き、エロゲ大好きみたいな(笑)。
その子がパソコンでFPS(※)のゲームをしていて“このゲームおもしろいよ”って。それでスペックの低いパソコンでFPSゲームを始めたのが、ゲームをやりだしたきっかけですね」
※FPS:ファーストパーソン・シューティングゲームの略。一人称視点で戦うシューティングゲームの総称
──そのときには、自分が苦手だった“オタク”化することに拒否感はなかったんですか?
「意外と拒否感はなくて。ゲームに関しては高校生のときからゲームセンターでシューティングゲームをよくプレイしていたので、受け入れられました。
いま考えると、小学生くらいのときから誰かと対戦するゲームは大好きでしたね。『大乱闘スマッシュブラザーズ』や『マリオカート』『ゴールデンアイ 007』とか。だからFPSゲームもすんなりハマれたのかもしれません」
──なるほど。でも当時はゲームではなく、あくまで映画監督として生きていくという気持ちがあったわけですよね。
「そうです。それで制作会社で働きつつ、いろんなところに頭を下げて、なんとか自主制作映画を1本作ったんですよ。でも最後の編集を終えて見返したとき“全然ダメじゃん俺”って思ってしまって……。とにかく人に見せられる作品じゃなかったんですよ。
それがショックでしたね。周りの人にも完成したら見せる約束をしていたんですが、全部無視して、また引きこもるようになっちゃったんですよね。せっかく上京したのに、今度は関東で引きこもってしまったんです」
──頑張って作ったものを自分で評価できないのはキツいですね……。
「いやいや、当時の僕はすぐ逃げるようなやつだったんです。引きこもっている間は、映画も撮らないし、仕事にも行かないし、人と連絡を取らないじゃないですか。いよいよやることがなくなって、残っていたのが“ゲーム”だったんです」
──ゲームにはハマれたんですね。
「そう。いろんな人と遠隔で交流しながらゲームをするのがおもしろかったんですよ。
当時はSkypeでしゃべりながらプレイするのが主流だったんですけど、最初は怖かったですね。“昨日は何してたの?”とか“何食べるの?”みたいな知らない人の声が聞こえてきて……。疎外感じゃないけど“これは輪に入れないな”と(笑)。
でもよくよく聞いたらみんな自分と同じように家にひとりでいることがわかって。当時の自分は対人恐怖症みたいになっていたので、顔が見えない相手とコミュニケーションを取るほうが楽だったんですよね。顔が見えないからこそ、本音でしゃべれた。それが気持ちよかったんだと思います。
それからだんだんと人と関われるようになってきて、建築関係のバイトを始めました。ゲームのコミュニティで人間関係のリハビリができていくという(笑)」
──もうこの段階まで来ると、自然とオタク寄りになっているのがおもしろいです(笑)。
「そうなんですよ。学生のころは“俺はラッパーだ。チャラい人間だ”と思ってオタクをバカにしていたのに、2度も引きこもって対人恐怖症になって、いろいろあった中で“自分もオタクだったんだな”って気づいたわけですよ。
そういえば、僕は幼少期から映画もゲームも好きだしアニメもフィギュアもおもちゃも好きだったんですよね。なので偏見を持っていたことも実は好きだったんだな、と。大人になって余裕ができてから“世の中にはいろんな人がいるし、いろんな趣味があって、それをフラットな視点で見たほうが楽しい”って気づきました」
──「苦手なもの」って表裏一体というか、自分のコンプレックスが作用しているケースもありますよね。私もオタク寄りの人生でしたが、クラブでZIMA片手にウェイウェイ言ってる人が嫌いな時期がありました(笑)。
「そうなんですよね。深層心理では憧れがあるというか……。でも苦手な人種の人もそれぞれ趣味があるし、自分が体験してみるとおもしろさに気づけたりするんですよね。今はそのことがよくわかります」
ゲームにまっすぐで将来の不安なんてなかった
──当時からFPSのゲームをしていたんですか?
「やっていましたね。最初はうまくなりたい、目立ちたいと思って練習していたんですけど、あるとき“自分はもうこれ以上、うまくはなれない”と思って……。実力も考え方も限界だと気づいたんですよね」
──どのあたりで限界を感じたのでしょうか。
「“年齢”と“やるぞ、という気持ち”が足りてなかったんですよね。今、プロで活躍しているプレイヤーはみんな遅くとも中学・高校くらいからやっていますが、僕は社会に出て20歳を超えてからPCを触り始めたし、あくまでエンジョイ勢(※)だったので」
※エンジョイ勢:ゲームの勝ち負けに過度にこだわらず、楽しむことを目的としているプレイヤー群のこと
──なるほど。そこからなぜキャスターの道に進んだのかが気になります。
「最初からゲームキャスターになりたかったわけじゃないんですよ。
2009年くらいですかね。ゲームユーザーのコミュニティがあったんです。僕はみんなでゲームをしている空間が好きだったんで、運営団体に“手伝いたいです”って連絡してみたんですよ。
そうしたら団体の人が“お前、けっこうトークおもしろいじゃん。ちょっとうちの大会で実況してみない?”って。それで実況の”じ”の字も知らないまま、しゃべり始めたのが活動のスタートですね。もう関西弁丸出しで(笑)」
──(笑)。いきなりしゃべれるのがすごいです。
「いやいや、いま考えたら恥ずかしいくらいグッダグダでしたよ。だからうまくしゃべれるようになりたいと思って、建築のバイトを辞めて、PC知識とトークの両方を学べる、パソコンショップの営業を始めたんです」
──アルバイトだとしても「趣味のために仕事を変える」って大きな決断ですよね。ゲームへの熱量を感じます。
「単純にそのコミュニティが好きで、当時は人生の中心だったんですよね。ただゲームキャスターで食べていけるとは微塵(みじん)も思ってなくて。キャスターだけでメシ食えてる人もいない時代なのでモデルケースがなかったし、コミュニティの運営メンバーも4人くらいと小規模でした。
でもゲームをするのも、ユーザーのみんなが楽しむ姿を見るのもおもしろかったから、仕事もプライベートもゲームに捧げられたんだと思います」
──なるほど。ちなみに営業職でトークスキルは上がったんですか?
「そうですね。うまくなったと思いますよ。僕、どうやら営業職が天職だったみたいで、アルバイトなのに社内でも営業成績がめちゃくちゃよくて。“社員にならない?”って誘われたんですけど、就職したら時間的にゲームキャスターができなくなるじゃないですか」
──そうですよね。でも多くの方は安定を求めて就職しちゃう気がします。
「確かに就職したほうが生活は安定しますけど、僕は当時就職という選択肢はまったく考えてなかったですね」
──「不安だなぁ」とかなかったんですか?
「それがまったくなかったんですよ。ゲームタイトルが好きで、ゲームで戦っている人が好きで、それを伝えて視聴者の方と盛り上がっていくのが好きでたまらなかった。
だから最優先にしたかったんですよね。迷いも一切なくて“好きなことやって、いま生きていればいい”くらいでまっすぐでしたね」
──それが超カッコいいです。「好きなことをやるぞ」という姿勢は映画監督を目指して上京したエピソードにも通じますよね。
「そうですね。ただゲームは自分にとって、ヒップホップや映画とは全然違いました。
いま考えたら当時の自分は“ラッパーっぽくならなきゃ”とか“映画監督みたいに生きなきゃ”って思ってたんですよ。でもそういえば“ゲーム好きにならなきゃ”とか思ったことないですからね。無理していないというか、苦じゃなかったんですよね。
要するに映画やヒップホップはもちろん好きなんですけど、映画監督やラッパーは向いていなかった。でもゲームは好きだし、ゲームキャスターは向いていたんだと思います」
e-Sportsは競技でなく娯楽だから実況では「熱量」を意識
──いつごろからゲームキャスターとして軌道に乗ったんですか?
「2014年ごろにイベント制作会社にキャスターとして雇ってもらえたんですよ」
──当時「ゲームキャスター」という職業ってOooDaさん以外にいらっしゃったんですか?
「いや、まだゲームの大会の母数も少なかったですし、ほぼいなかったです。格闘ゲームのアールさんとか、僕の先輩のyukishiroさんくらいかなぁ。
当時の実況者ってキャスター経験はあっても、どこかで一般企業に就職したり、裏方に回ったりしていたんで、キャスター業だけを続けている人は本当に少なかったですね」
──そういう意味ではOooDaさんはモデルケースを作ったという意味でも偉大ですよね。そもそも大会が少なく仕事をもらい続ける土壌がないのに、不安なく楽しめるのが大きいですよ。
「今も同じですけど、当時から実況が楽しくてたまらないですね。公式大会ってプレイヤーとしての自分が憧れているスターたちが日々練習した成果を出し切る場所じゃないですか。そんな熱い戦いを視聴者のみなさんに伝える。それで“うおおお!”って湧いてくれる。そんな一体感もある。そのすべてがドラマチックで好きなんですよね」
──大会と実況という構図としては野球、サッカーみたいなメジャースポーツと同じですけど、ゲームならではのおもしろさもありますよね。
「そうですね。スポーツって”競技”じゃないですか。でもゲームって娯楽なので、競うより先に”楽しい”という感情がありますよね。だからプレイヤーも観客のみんなもワクワクしながら観られるのかなと思います」
──その点はOooDaさんもキャスターとして意識しているんですか?
「そうですね。実況するときはエンターテインメントとして”熱量”を持って話すことを意識しています。もちろん冷静に分析しながらしゃべることもできるんですけど、いちばんは“ゲームって楽しいよね”ってことが伝わればいいなと思ってますね」
【後編→FPSゲームで世界3位に輝いた日本代表!FPSを盛り上げてきたOooDaさんが横浜アリーナで号泣した理由】
(取材・文/ジュウ・ショ、編集/FM中西)