2021年9月に「川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム」が開館10周年を迎えた。それを祝うかのように書店には『ドラえもん』(小学館)のコミックスや関連書籍が並び、単行本未収録だったエピソードも藤子・F・不二雄先生の死後に続々と刊行され、今ではほとんどを読むことができるようになった……が、いまだに封印が解かれていない『ドラえもん』がある。
あなたは『ドラえもん』初アニメ化作品、通称・日テレ版『ドラえもん』を知っていますか──。
初アニメ化は日テレ
『ドラえもん』のアニメといえば、テレビ朝日のイメージが一般的だろう。1979年4月から放送が始まり、2005年のリニューアルで声優陣や設定が一新された現在のシリーズと合わせて、今年で42年。国民的アニメへと成長を遂げた。そのかげで、テレビ朝日の放送開始より6年も前に、『ドラえもん』を初めてアニメ化したのが実は日本テレビで、健闘むなしく打ち切りになったことを覚えている人は、50歳以上の世代でも少ないかもしれない。
今や幻の作品となってしまった同作品について、ネットで検索しても本編映像は皆無で静止画や音声ばかり。かろうじて藤子・F・不二雄先生(以下、本名の藤本先生)作詞のオープニングとエンディング映像が確認できるくらいだ。
テレビ朝日版が圧倒的な人気を獲得したにしても、なぜ日本テレビ版はこれほどまでに見ることができないのか。「川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム」の年表にすら未掲載だという。実は、そこには大人の忖度(そんたく)と裏事情があった……。
それを決定づけた騒動が1979年、藤本先生の出身地・富山県で起こっている。ファンの間では通称「富山事件」と呼ばれるこの騒動は、テレビ朝日版のアニメ放送が始まったころ、富山テレビ(フジテレビ系)で日本テレビ版『ドラえもん』の再放送が始まったことで起きた。これを知った藤本先生が激怒して小学館と連名で内容証明を送りつけて抗議、再放送は9回で中断されたというのだ。
放送が始まったばかりのテレビ朝日版の成功を願い、水をささないための措置だったと思われるが以後、日本テレビ版は一切放送されていない。事実上のお蔵入りとなってしまったのだ。藤本先生が生前、日本テレビ版について「原作とは似て非なるものだ」と語り、気に入っていなかったという証言もあり、復活はそうとう難しいのかもしれない。
大人の事情は理解できるが、本当に封印しなければいけないほど、作品の内容はひどいものだったのだろうか。確かに作品の資料によると、テレビ朝日版とは違う独特の雰囲気やクセはあるようだが、それは制作スタジオやスタッフが代われば、今日でもよくあることだ。
実際に作品を鑑賞して確かめたいが前述のとおり、それができない。
原作とは異なる試行錯誤も
日本テレビ版『ドラえもん』(1973年4月1日〜9月30日の全26回、アニメ制作は日本テレビ動画)が放送されたのは、日曜の夜7時(裏番組が人気アニメの『マジンガーZ』という厳しい時間帯)だった。
日本テレビ版の設定などを調べてまず驚くのは、テレビ朝日版とは印象がかなり異なるメイン声優陣だろう。
日本テレビ版のドラえもん役は富田耕生さんだった。『マジンガーZ』のDr.ヘル、『ゲッターロボ』の早乙女博士、『平成天才バカボン』のバカボンのパパでおなじみの大人のおじさんの声といった印象だ。
さらに、ドラえもんを年上の存在ではなく、もっと身近な友達らしさを出すためにと14話からは、『ドラゴンボール』の悟空の声でおなじみの野沢雅子さんへと変更された。
のび太の声は太田淑子さん。『ジャングル大帝』のレオ、『ひみつのアッコちゃん』のアッコでおなじみのベテランだ。ジャイアンの声は、なんと後にテレビ朝日版でスネ夫を担当した肝付兼太さんだった。そして、のび太の母はテレビ朝日版で、のび太の声を担当した小原乃梨子さんだったというから、なんとも興味深い。ちなみに、しずかちゃんの声は恵比寿まさ子さん。『ジャングル黒べえ』でも紅一点のたかねちゃんを演じている。スネ夫の声は八代駿さん。『いなかっぺ大将』で主人公と対立する西一を演じている。
設定においても、ジャイアンの母親が故人で父子家庭だったり、しずかちゃんの家にボタ子という家政婦さんがいたり、ドラえもんが秘密兵器を出すかけ声が「あ〜らよっ」と江戸弁だったり、ガチャ子というアヒル型ロボットが登場してしずかちゃんの家に居候したりと、藤本先生のオリジナルにはないアレンジがある。テレビ朝日版との相違は多々あるが、単行本の発売前で原作エピソードも少なかったため、作品のイメージが今のように固まっておらず、下町人情ものを狙った試行錯誤がうかがえる。
テレ朝版が国民的アニメに成長した背景
視聴率は高くはなかったが、第3クールの放映続行が決まりかけたとき突然、アニメ制作会社の日本テレビ動画(日本テレビとは関係のない別会社)の社長が失踪、会社は解散となり、放送も打ち切りになってしまう。しかも、会社が解散したことで、当時の映像や資料のほとんどが処分されてしまった(それでも元スタッフの個人保管分とフィルムを現像したイマジカ=当時は東洋現像所=にシリーズ後半の一部が残っているといわれるが、日の目を見ることはあるのだろうか……)。
そして、失敗作の烙印(らくいん)を押されたアニメ『ドラえもん』がテレビ朝日版として復活するのには、6年の歳月を要することになる。
確かに日本テレビ版『ドラえもん』は、当時のほかの藤子不二雄アニメと比べるとテイストが違ったのかもしれない。それでも日本テレビ版の試行錯誤によって、結果的にテレビ朝日版『ドラえもん』が原作のイメージと持ち味を尊重した作品づくりをすることにつながったのではないか。再アニメ化の際に、藤本先生を口説くために急きょ元同僚から企画書を頼まれた高畑勲(当時は日本アニメーション)は、脚本家を立てず、原作どおりそのまま絵コンテを作ることを提案したという。高畑勲が書いたテレビ朝日版の企画書『ドラエモン“覚書”』(「ドラエモン」は原文ママ)は、「川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム」でも見ることができる。
『ドラえもん』が誕生して半世紀。原作にも、テレビ朝日版のアニメにも、絵柄の変遷や歴史があったことは誰もが知っている。だから、日本テレビ版も、テレビ朝日版との違いを知るための映像資料として『ドラえもん』の歴史のひとつに加えて、きちんと後世に残してほしいと思う。日本テレビ版があったからこそ、『ドラえもん』は現在のような国民的アニメにまで成長することができたのだ、と思えてならならないのは私だけでなのだろうか。
(文/春原恵)
※太田淑子さんの作品について一部修正しました(2021/11/09)