俳優としてさまざまなドラマ・映画に出演してきた柏原収史(42)だが、15歳でデビューして以来、常に音楽との2本柱でやってきた。兄・柏原崇をボーカルに迎えたロックバンドNo’whereでCDデビュー、現在EXILEのメンバーとして活躍するNESMITH(ネスミス)と組んだSTEELのほか、音楽制作・プロデュースの仕事も多い。幅広い分野にわたる活動に迫る──。
※前篇は『柏原収史「ぜったい行かない」と言ってた兄貴が… 柏原崇と“同期デビュー”秘話』
ボーカリスト・柏原崇の衝撃
そのとき20歳の柏原収史は熱狂の渦の中にいた。1999年8月、4人組バンドNo’whereとして初の海外公演を敢行。今も目に焼きついている光景がある。
「台湾でコンサートを開いたのは強烈な体験でした。ドラマの『イタズラなKiss』の人気で兄貴が台湾でバズって派手に歓迎してもらったのは、鮮明に記憶に残っていますね。もう空港が何百人ものファンであふれかえって、黒服の警備が10人くらいついて僕らを守って。移動も警察の車が先導して後ろからファンの女の子たちが原付のバイクでウヮーっと追いかけてくる。ライブには3万人ものお客さんが集まって大変な熱量でした。ものすごい経験をさせてもらったのは、本当に忘れられません。あのドキドキがあったから、今でも音楽のライブの楽しさを追い求めているところはあります」
No’whereが結成されたのは、兄弟が俳優デビューしてから5年後の1998年。
「最初から兄貴と一緒というわけではなかったんです。僕は僕でドラムの人と東京で出会って “一緒にバンドやりましょう” ってなって、兄貴は兄貴でレコード会社から “歌を出しませんか” と誘われていた。でも兄貴はいわゆる役者が歌うみたいな形は気がすすまなくて、ずっと断っていたんです。そんな中、僕とドラムが練習スタジオに入るのがすごく楽しそうに見えたらしくて、 “一回会わせてくれ” と。3人でスタジオ入ったら、兄貴も “この輪に入りたい!” ってなって」
収史と一緒のバンドだったらやりたい、という希望がレコード会社に認められ、デビューに向けて具体的に動き出す。
「ドラムの修ちゃん(藤井修)はB’zの稲葉さんともやっていたバリバリのプロの方で、当時もう30代後半だったかな。そこからベースを探そうってオーディションをして、丸さん(田中丸善威)が入って4人そろうんです」
1998年秋にシングル『Another World』 でフォーライフレコードからメジャーデビュー。デビュー曲は収史が作曲、崇が作詞を担当。アルバムでもほとんどの曲を収史が手がけ、ロックなスピリットを炸裂(さくれつ)させている。だが英国のバンド「オアシス」のリアム・ギャラガーを意識したであろう柏原崇のパフォーマンスは、ファンの間でも賛否両論があったようだ。
「僕は俳優でもわりと悪い少年役とか、とっぽい感じが多かったんですけど、兄貴はさわやかなイメージで見られていたので、かなりビックリされたというか。“こんなダミ声を使って歌って!? ” みたいな反応もありましたね(笑)」
結局No’whereはシングル3枚、アルバム1枚をリリースしたものの、1年ほどで活動を休止することになる。
「それも別になんとなくだったんです。ここで契約が終わるとも言われなかった。兄貴がドラマの撮影に入ったら3か月間活動しなかったりするわけじゃないですか。そのままフェードアウトみたいな感じで。アルバムを出した後 “次はいつ出すのかな?” みたいなことをポロッと聞いたら、“いったんNo’whereはお休みよ” みたいなことを言われた気もするんですけど、かといって “エーッ” とか挫折とかはないまま」
ネスミスとは兄弟のような関係
そこで、収史は新たなステップを踏み出す。現在はEXILEのボーカル&パフォーマーとして活躍するNESMITHとの2人組ユニット「STEEL」だ。
「とにかくバンドで活動したかったので、僕のスタイルからいうと、曲を作りたい、ギターを弾きたい、ボーカルが欲しい……。ちょうど当時やっていたのが『ASAYAN』の男子ヴォーカリストオーディションだったんです」
テレビ東京の『ASAYAN』はナインティナイン司会の「夢のオーディションバラエティー」。番組ではさまざまな企画が組まれ、モーニング娘。、鈴木亜美ほか多数のアーティストやタレントがデビューのチャンスをつかんだ。このときは男性デュオをつくる企画で、堂珍嘉邦と川畑要が合格してCHEMISTRYを結成するのだが……。
「オーディションで初めてネスミスを見て “ああ、すげぇいいボーカルがいるなぁ” と。もう毎週テレビにかじりついていましたね(笑)。そこから5人残ったのがケミの2人とネスミスと藤岡くん(現在ミュージカルなどで活躍する藤岡正明)と今のEXILEのATSUSHIくん。超アツいその5人からまずATSUSHIくんが落ちて4人残ったんです。それでいろいろなペアで歌ったんですけど、僕は圧倒的に堂珍・ネスミスだと思いましたね。でも、最終的に選ばれたのは堂珍・川畑のペア。すぐにレコード会社に “ネスミス獲得できないですか?” “あのネスミスとやりたいです!”って電話していました」
熱い思いが通じてSTEELとして翌2001年6月にデビュー曲『Because…』をリリース。収史の作詞・作曲で、オリコン17位のスマッシュヒットとなる。
「そこは本当にもうCHEMISTRYの恩恵というか。ネスミスは最後まで残ったひとりなので、世間に注目してもらえたんですよ。その後、僕がトライストーンからメリーゴーランドに事務所を移籍したこともあって(経緯についてはインタビュー前編を参照)、ネスミスは何年かソロで活動するようになり、やがてEXILEのHIROさんから声がかかってJ Soul Brothers(2代目)になり、EXILEに昇格して今に至る、と。ネスミスとはいまだに兄弟のような関係です」
2020年4月にはコロナ禍の中、2人が19年ぶりにコラボする動画がSNSにアップされ、ファンを喜ばせた。
「ああ、そうですね。昔のSTEELの曲(3枚目のシングル『Calling you』)をやりました。あれはリモートなんですけど、僕がまずギターを録って送って、それに合わせてという形です。今もまだコロナ禍は続いていますが、当時は本当に異様な空気感だったので、少しでも自分たちでできることをしたかったんです」
どこからでもかかってこい!
STEELとしての活動を終え、一時期は俳優業に専念した収史。このころの出演作品に映画『きょうのできごと』『オーバードライブ』『血と骨』、ドラマ『エースをねらえ!』などがあるが、ふたたび音楽にも力を入れるようになる。
「そこでまた新たな出会いがあるんですが、STEEL の楽曲制作を通じて仲よくなったABOTTOレオという僕の3つ上のミュージシャンと2人でプロデュースユニットを組んで(ShAbo名義)、企画書を作っていろいろプレゼンしましたね。実現はしませんでしたけど、マツコ・デラックスさんに歌ってもらおうとか、ボブ・サップがラップをやって『ボブ・ラップ』とか(笑)。
実は川越シェフがCDを1枚出しているんですが(2012年4月リリースのシングル『お米のおはなし』)、それは僕とABOTTOレオの企画です。川越さんが『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングで “歌の仕事もやってみたい” とおっしゃったのを見て、ホームページの《お仕事はこちら》のところから連絡して。歌詞は仲のいい徳井くん(チュートリアル・徳井義実)に書いてもらいました」
そうした音楽活動の母体となったのは、31歳のときにつくった「株式会社ロックミー」だ。
「会社を立ち上げてからは、本当にいろいろな音楽を作らせてもらいました。楽曲提供もそうですが、パチンコのBGMが大きかったですね。数をいっぱいやらせてもらって経験を積めたし、成長させてもらった。
1台だけでもいろんなところからフリが来て、この曲はジャズっぽい感じでお願いします。ボサノバ調でお願いします。演歌でお願いします、と。“わかりました!”って言って、“えーっと、ボサノバってどういうリズムなのか” とYouTubeで調べたり。プロとして、できないとは言えないので。しかもスピード感が求められるし、評価もすごく厳しくて何回も作り直すのは当たり前。電子音とかの研究もしましたし、いろいろなジャンル・作り方を学んで習得しました。精神的にはめっちゃくちゃ大変でしたが、おかげで今はもう “どこからでもかかってこい”です(笑)」
変わったところでは、九州は福岡県のガールズエンターテインメントユニット「トキヲイキル」のプロデュース公演の舞台演出も手がけている。
「トキヲイキルは大きく言えばSMAPやTEAM NACSのように個人の活動もしながら舞台・芝居をやっていくコンセプト。もともと演出をしようという発想はなかったし、したいとも思っていなかったんですが、トキヲイキルのプロデューサーに “ぜったいに柏原さんやってください” みたいに頼まれて、なんだか断るのも悔しいし、思い切って飛び込んだのが最初で、まさに “導いてもらった” 感覚です。今年もまた3週間ほど福岡に行きますが、もう8本目になります」
舞台では音楽も手がけているが、演出はまったく初めてからのスタート。
「学ぶことがたくさんありました。それまで演じるほうばかりだったのが、視点が変わることでさらにお芝居の可能性に気づけたり。素人だらけだった演者の彼女たちが、回数を重ねていくことで成長していく姿を見るのも、親心としてうれしいところがありますね」
40代を迎え人生初めての決断
自ら演じる俳優業、裏方としての音楽制作やプロデュースなどに加えて、新たに3本目の柱が立ったのは2年前。自らが代表をつとめる苺スイーツ専門店「浅草苺座」だ。
「最初は東日本大震災の復興支援活動からでした。とあるきっかけで宮城県の山元町のイチゴ農園の社長と出会ったんです。もうひとり、復興支援のために九州から仙台に移り住んだ化粧品会社の社長とも知り合って。山元町は震災の被害を大きく受けてしまったので、3人でそこを復興させる目印として、いつか山元町のイチゴを日本全国、そして世界に発信できるようなお店を東京に出しましょうと誓い合ったのが発端で。
僕はお店を出すのは初めてなので、経営については化粧品会社の社長からいろいろ勉強させていただきました。実現するまで5年かかりましたけど、2019年5月1日に浅草苺座をオープンさせることができました」
当時は外国人観光客によるインバウンド消費が大きかった時期。夢は大きく世界に発信する意味合いから浅草に着目し、ありがちなケーキなど「洋」ではなく「和」でイチゴを売るコンセプトを立てた。思わぬコロナ禍に見舞われたが、2020年11月15日(いいイチゴの日)に2号店、2021年5月1日に3号店と事業を拡大していく。
「浅草は観光地なのでコロナ禍の影響で大ダメージを受けました。有名な老舗もバタバタ店を閉めるような状況で、本当に浅草がいったん死んだようになり、僕ら苺座も打撃を受けました。でも、むしろこのピンチをチャンスに変えていこうというのがうちの合言葉。2号店、3号店については普段ならば絶対に取れないような一等地の店舗がたまたま空いて、しかもだいぶ家賃も下がっていた。そこで5年契約すればそのまま5年なので、博打を張るわけじゃないですけど思い切って増やしたんですね。いつか本当にコロナ禍が去ったときにはお客さんも帰ってくると信じています」
店舗をオープンさせる前の視察も含め足しげく浅草に通ううちに、人情味あふれる街の魅力にすっかり取りつかれ、実はすでに自宅の転居もすませている。
「僕は40歳のときに浅草に引っ越したんですけれど、これまでの人生を考えると、本当にいろいろな人に導いてもらいました。役者に関しては初代マネージャーの細川さんが声をかけてくれたし、バンドを始めたのだって、最初は中学のバスケ部の仲間に “ドラムがいないからやってくれ” と言われたから。パチンコのBGMの仕事もお世話になったメーカーの人からの熱心なお誘いがあった。いろいろやっているようで、自分の意志で決めたことってあまりなかったように思うんですよ。
でも40歳で浅草に引っ越すっていうのは、ある意味、僕が人生で初めて自分で決断したこと。はたから見れば小さなことかもしれませんが、僕にとっては20年ほど世田谷に住んでいたので、大きな変化だったのかもしれないですね」
役者、音楽、浅草苺座と3つの柱が立って、それぞれに目標をすえている。苺座としては店舗のほかにイベント会場や催事場での展開も進めているし、通販にも乗り出す予定だ。
「音楽としては本当にいろいろな曲を作らせてもらったんですけれども、大ヒット曲が1コもないんですよ。死ぬまでには絶対作りたい。それこそ僕は結婚して子どもをつくって幸せな家庭を築きたいという願望が今のところまったくないので、ほかで頑張ります(笑)。今いろいろなことをやらせてもらって、大変なことも、つらいこともいっぱいあります。でも、トータル楽しい人生ですね」
(取材・文/川合文哉)