学ランにリーゼントというヤンキーファッションで2002年にメイジャーデビューしたロックバンド・氣志團。『One Night Carnival』のヒットで、瞬く間にライブハウスシーンから全国区のミュージシャンに成長しました。そのフロントマンでありボーカルの綾小路 翔さん。バンド活動以外にも、ラジオDJや「氣志團万博」(氣志團が主催する大型野外音楽フェスティバル)のプロデューサーなど多彩な才能を発揮しています。
翔さんに、7年ぶりとなるニューアルバム『THE YANK ROCK HEROES(※)』の制作秘話から、コロナ禍の音楽活動について熱く語っていただきました!
(※YANKの「A」は丸囲み、HEROESの「O」はスラッシュありが正式表記)
氣志團はヤンキー界のアベンジャーズ
──アルバムのタイトルにもなっている「ヤンクロック」を改めて定義すると、どのような意味でしょうか?
「自分たちの音楽に合うジャンルがなかったので、勝手に『ヤンクロック』って言い出しました。最初は『関東オルタネイティヴつっぱりエレキ』って言っていたんですれど。氣志團は最初、インストゥルメンタルバンドだったのですが、音楽のジャンルで言うとパンク、更にはプログレやガレージの要素があった。それらを全部ひっくるめて『ヤンクロック』って。とはいえ、後進が育たなかったから、シーンが広がらず、特に世間に浸透することもなかったけどね(笑)。要するにわれわれにしか構築できない、難解かつ孤高の音楽ジャンルを発明してしまったんです(笑)」
──氣志團の音楽性をすごく表している言葉だと思います。
「今回のアルバムタイトルを考えていたときに、YOSHIKIさん、HYDEさん、SUGIZOさん、MIYAVIによるドリームバンドの結成の発表があったんですよ。そのバンド名を見て、ぶっ飛びました。『THE LAST ROCKSTARS』! マジかよ! って。実際の意味はわからないけど、響きと文字面で脳天カチ割られました。最高すぎますよね! 暴走族が背中一面に“天下無敵”って刺繍入れる感じ。で、俺たちも自分ではっきりと言っていこうって思ったんです。おい、俺たちは誰だ? そう、俺たちこそが“ザ・ヤンクロックヒーローズ”じゃあ! って」
──アルバムタイトルをメンバーに告げたときの反応はどうでしたか?
「“ええっ!?”てザワつきましたね(笑)。でもYOSHIKIさんを見ていて、ヤンキーってやっぱカッコいいなって思ったんですよ」
──YOSHIKIさんも翔さんと同じ千葉出身ですからね。
「いえ、YOSHIKIさんはXです(きっぱり)。出身地も誕生日もすべてX。うん、でもヤンキー気質っていいなって思ったんですよ。現代にない、言い切る強さっていうか」
──ある意味、男らしさかもしれないですね。
「古今東西のヤンキーを全員集めたら、ファイ(注:Oにスラッシュ表記。BOOWYの正式名称で2番目のOに使用されている)も入れないと(笑)。氣志團には群馬のエッセンスも入っているんです。要するに、関東オルタネイティヴつっぱりエレキですよね(笑)。つまり氣志團はヤンクロックヒーローが集結したアベンジャーズなんですよ」
──わかりやすい例えですね!
「『THE LAST ROCKSTARS』は日本が誇るスーパーロックスターを大集結させているけれど、僕らはヤンクロック界のヒーローが集まっている。でも、そもそもヤンクロッカーっていうのは、絶滅危惧種と言われていて貴重かつ希少なんですよ(笑)」
──ヤンキー文化は、このままでは途絶えそうですよね。
「はい。言うなればトキより少ないと言われていて。しかも繁殖する見込みがない。本当に5人から8人しかいないと言われているんです。われわれ以外だと、白鳥雪之丞(氣志團ドラム・無期限休止中)と毒蝮 愛(氣志團元メンバー)叶 亜樹良(氣志團現サポートドラマー)も入れて、これまでにわが国で確認されたヤンクロッカーは8名なんですね。氣志團はその8名のうち6名のメンバーで活動しているわけですから、これはほぼほぼアベンジャーズですよね」
BOOWYの影響を隠さなければならなかった90年代
──私が初めて氣志團を観たのが、オナニーマシーン(注:音楽ライターのイノマーがボーカルを務めた伝説のパンクバンド)主催の『ティッシュタイム』(2000年・Planet K)というイベントだったのですが、いくつかバンドが出演した中で、まだデビュー前だった氣志團の存在はすごく覚えています。
「オナニーマシーンや、QP-CRAZY(注:過激なパフォーマンスで知られたバンド)が出ていた面白いイベントだったよね。当時、銀座7丁目劇場という吉本興業の劇場にまちゃまちゃという同級生の芸人が出ていて、そのつながりで、ダイノジから“今度、ライブで僕たちのバックバンドやってくれないか?”って誘われたんです」
──メンバーの反応はどうでしたか?
「僕は既にダイノジの大ファンだったのだけど、うちのメンバーは知らなかったんですよね。それを突然、“彼らのバックでBOOWYの曲を5曲演奏してくれないか?”って聞いたものだから、単純に困惑していましたね。嫌悪感ではなくて、“なんで俺たち?”、“しかもなんでBOOWY?”っていうリアクションでしたね」
──今の氣志團のヤンクロックのイメージからは想像ができないですが。
「まず、90年代半ばから後半にかけて、『BOOWY』っていう言葉は、バンドマン界隈ではある意味禁句だったんですよ。今では信じられないことですが、彼らに影響を受けているなんてことを言ったらいけない時代が確かにあったんですよね。バンドブームが終わって、80年代〜90年代初頭の日本の音楽文化がトラウマ的に捉えられている時代で。その象徴たる位置に君臨していたのがBOOWYだったからでしょうね。ある種の踏み絵的な存在になってしまったんです。当時はうちのメンバーたちですら、触れたら火傷すると思っていたんじゃないかな。
ただ、あの日改めてカバーした時にBOOWYの楽曲のすごさ、プレイヤーとしてのすごさを再確認したんです。時代の流行や風潮に流されちゃいけない、他人の感覚に委ねちゃいけない、と心に固く誓った瞬間でもありました」
──翔さんは、好きなものがブレていないですよね。
「僕はミーハーなので、その都度いろいろなものに興味を持つのですが、過去に好きだったものを隠したり、ガチ勢じゃないことを恥じたりする感覚が人より足りないのかも。好きが増えれば増えるほど、人生が豊かになったから。だから前の彼氏を悪く言う女の子とはうまくいかないかも(笑)。
前述したように、ライブハウス界隈では、バンドブームの話をするのも恥ずかしいという雰囲気があったんです。90年代半ばから後半にかけては、触れちゃいけないムードだった。本当はみんな影響を受けているのに、その感じは出しちゃいけないっていう。僕らの世代は、一気にミクスチャー系や、メロコア系のバンドになりましたから。日本の音楽の影響を受けていないことをアピールするために、カウンターカルチャー的に洋楽志向の音楽が生まれてきた時代なのかな。ビートパンクっぽいものや、日本語で甘いメロディーを歌うのはヴィジュアル系だけに任せようっていう時代になったんですよね。このへんは完全に僕の主観ですけど。そんな中、自分は堂々と好きなものは好きと叫び続けて来たかなと思います」
──確かに、当時を振り返るとそういう風潮がありましたよね。
「僕らも長く生きてきて、ブームっていうものは絶対に終わるっていうのもわかったし、終わったものはしばらく触れちゃいけないみたいな雰囲気になってしまう。でもケミカルウォッシュみたいに、二度とあり得ないと思われたものがまた流行(はや)ったりもする。だから俺たちはこれからも『ヤンクロック』という旗を掲げ続けるんです。今、強引に話をまとめようとしている事は自覚しています(笑)」
コロナ禍での活動停止中は、心が休まった
──コロナ禍になって、音楽活動ができなかったときはどのように感じていましたか?
「これは誤解を恐れずに言えば、という話ですが、僕ね、コロナのタイミングで本当にやることがなくなって、ホッとしたんですよ。みんなには言えなかったけれど。毎日、人前に立ってステージで歌わなければならない。作品を作って売らなきゃならない。『氣志團万博』や自分たちのGIGも、どうやって集客するのか、どうやって収益をあげるのか、メンバーやスタッフたちの生活、みんなを楽しませるには……飽きられないためには……だなんて、常に考えていたんでしょうね。それがこんなにプレッシャーだったんだって初めて気づいて」
──氣志團の活動をやっていくうえでのプレッシャーが大きかったのですね。
「バンド活動を1年やって、また来年になると新しい時代が始まる。たまに“本当に自分のやりたいこと”をやっているのかもわからなくなる。こんな大所帯を食わせていくのは大変だなって常に危惧していた。でもファンのみなさんには会いたいし、ステージが嫌なわけではないんです」
──ライブや音楽活動ができない間は、どのように過ごされていましたか。
「酒を飲みに行くのもはばかられる中で唯一、誘ってくれたのが、Psycho le Cemu(サイコ・ル・シェイム)のボーカルのDAISHI君。彼がやっているジムに、チャリで毎日通っていましたね。普段はタイアップが決まってから曲を作るような、ミュージシャンとしてクソみたいな僕が(笑)、暇すぎてチャリに乗りながら全部、鼻歌で作ったんです。それがニューアルバムに収録されている『房総魂』と『Do Me』です」
──ご自宅では楽器を演奏されないのですか?
「引っ越したばかりで、家には旅行用に買ったアコースティックギターが1本置いてあるだけだったんですよ(笑)。そういう状況で作った曲なんですよね。音楽活動ができなかったときにしていたことは、キャンプとジム通いですね。キャンプに行って、自分で作った曲を野外で聴いていました。そんなことばかりしていましたね」
レコーディング中にクラスター発生
──今回、7年ぶりのオリジナルアルバムになりますが、コロナ禍でのレコーディングは今までとどう違いましたか?
「実は、レコーディングでバンド内クラスターを起こしまして……(注:2020年12月、綾小路 翔、早乙女 光・DANCE & SCREAM、西園寺 瞳・ギターのメンバー3人がコロナウィルスに罹患)。まだコロナワクチンができる前だったね。でもこれがきっかけで、バンド内でのガイドラインができましたね。感染後は、僕とその日の演奏者とエンジニアさん以外の人はスタジオに来ないようにしたんですよ。“そんな大物ミュージシャンみたいなこと~”って思ったけれど、結構みんなそうらしいね(笑)」
──不謹慎ながらも、KISSES(キッシーズ・氣志團ファンの総称)の間ではメンバー同士の仲のよさを喜んでいる感じでしたが……。
「うちぐらいじゃないですか、出番がないのに必ずメンバー全員集まってレコーディングしているバンドは(笑)。だからクラスターも起きたんですよね……。光君に至ってはみんなに水を出したり、おやつを用意してくれたりしているからね(笑)」
──レコーディングは、数年かかったのですか?
「7年ぶりのニューアルバム! とか宣伝文句になっていますが、単純に7年間干されていだけなんじゃないですかね(笑)。ただ、実際のところ、別にレコーディングをしなくても、タイアップ曲や配信シングルがあったのでアルバムを出せるぐらいのストックがあったんですよ。でも力技で10曲追加レコーディングしましたね」
──今回のアルバムだと『No Rain, No Rainbow』、『今日から俺たちは!!』など、いろいろなカルチャーからのオマージュを感じますが、どのようにアイデアを融合しているのですか?
「そもそも僕にはオリジナリティがないんですよ。まったくない。だから影響を受けたものを丸ごと食べて、じっくり消化させて、最終的に排泄したものを材料に作品を作ります。当然お腹の中で食べたもの同士が混じり合ったりもするから、何が出てくるかわからない。そのわからないものをこねくり回していくうちに形ができあがってくる感じ。要するに僕の音楽はうんこアートって事なんですかね(笑)?」
──翔さんの書く歌詞の元ネタを探すのも、楽しみのひとつですよね。
「僕は80’s〜90’sの日本のカルチャーが大好きで、数えきれないほどインスパイアされたものがあります。全身全霊のリスペクトを込めてオマージュした作品もたくさんあります。歌詞やアレンジ、デザインなどに、僕の“好き”をそっと振りかけて、全世界にいる僕と同じ想いを抱く仲間たちへ届け、と願うメッセージのつもりです。ただ、気づかれなくてモヤモヤしているもののほうが断然多いですけどね。メンバー内でも“あれ何なの?”“え! そういう意味だったの?”“20年経って初めて知った!”みたいなことがいっぱいありますしね(笑)」
──それは翔さんの知識が、深掘りされたものだからではないですか。
「うーん、どうなんですかね〜。自分的には言うほどマニアックだと思ってない。僕はオタク気質だと思われがちなんですけれど、実はオタクの素養がまったくないんです。狭くて浅い人間。だから自分にとってオタクっていう存在は、永遠の憧れなんです。僕にはどうしたってなれないから。少年少女が世界トップクラスのアスリートや、グローバルスターを夢見るのと同じ気持ち。
そういえば、人生で初めて挫折を経験したのは小6のころなんだけど、その絶望から救ってくれたのはみうらじゅんと大槻ケンヂ。みうらさんは宝島、大槻さんはラジオ。彼らの物事の見方、捉え方が僕には異次元すぎて。生まれて初めて顔と名前が一致しない状態で人を好きになりました」
ヤンキー漫画に登場するなら、あだ名は……?
──翔さんが思う“オタク”は、どのようなタイプの人でしょうか。
「オタクの人たちって本当に何かに没頭すると、どんどん追求していく。周りから“どこ目指しているの?”って言われてからがスタートライン、みたいな。自分の“好き”に忠実で貪欲。アイドルでもアニメでも鉄道でも山でも筋肉でも、何だっていいわけで。昔は変人扱いされることもあったのだろうけど、今や中高生のヒエラルキーではトップの位置にいたりする。僕は好きなことに夢中になっている人、時にどうかしている人が好きなんです」
──「推し活」にしても、夢中になれるほうが幸せみたいな風潮がありますよね。
「最近、先輩に“僕はオタクに憧れる非オタクなんです”って話したら、 “翔やんはルポライターなんだよね”って言われたんです。好奇心の塊で、危険とされる場所であろうと興味のある現場には自ら潜入して、ともに生活をすることによって生の声を聴いたり、生態系の観察をする。それを自分の公演や作品に反映してみんなに伝える。ルポライター気質だって言われたんですよ」
──確かに外側に向かって、発信する力があるからでしょうね。
「ヤンキー漫画って登場人物にあだ名がついている作品が多いんですけれど、僕が漫画の中にキャラクターとして存在したら、呼ばれるあだ名がわかったんです」
──なんでしょうか?
「(ポツリと)カタリベ」
──(笑)! 語り部だと脇役になっちゃいますよ。
「完全に脇役ですね。だけど、その中でスピンオフになりたいんですよ。後ろ向きな話では全然なくて、氣志團を始めるときに決めたことは、自分が本当になりたかったものを諦めるってことだった。誰もが憧れるヒーロー像があったけれど、それを諦めるところからスタートしたんです」
◇ ◇ ◇
リラックスした表情で、笑いを交えながらレコーディングやアルバムについて語ってくれた翔さん。後編では、翔さんがアマチュア時代にバイト先で出会ったミュージシャンとの思い出、『氣志團万博』の裏側についてお聞きしています。
【後編→氣志團結成から25年、綾小路 翔が語る音楽人生。「ロックの女神に選ばれていない側の人間」と思い知ってからの戦い方】
(取材・文/池守りぜね)
《PROFILE》
綾小路 翔(あやのこうじ・しょう)
1997年に千葉・木更津で結成されたロックバンド「氣志團」のボーカル兼リーダー。2001年にメイジャーデビューを果たし、『One Night Carnival』『スウィンギン・ニッポン』などヒット曲を連発。2012年からは地元の千葉県で大規模な野外イベント「氣志團万博」を主催し、ほかのフェスとは一線を画するラインナップで多くの音楽ファンの支持を集めている。アーティスト活動のほかにも、DJや執筆、プロデュースなど幅広いジャンルで活躍。