2023年7月14日公開予定の映画『君たちはどう生きるか』は、『風立ちぬ』から10年ぶりの宮崎駿監督作品だ。吉野源三郎の同名小説からタイトルを取っているが、本編は監督が独自に描き出したオリジナルストーリーになるという。日本を代表する名監督の新作発表とあって、過去作を愛する人々から期待と喜びの声が上がっている。
そんな宮崎駿監督が手がけたスタジオジブリの長編アニメーション作品である『千と千尋の神隠し』は、10歳の少女・千尋が、引っ越し先へ向かう途中に入ったトンネルから神々の住まう不思議な世界へ迷い込んでしまい、元の世界へ帰るまでに成長していく姿を描いた作品だ。
美しい竜の少年・ハクや、千尋が転がり込んだ油屋の当主・湯婆婆、世話焼きの姉のような存在・リンなど、多種多様な魅力あるキャラクターはもちろん、ジブリ作品に共通であるさまざまなテーマへの問いかけが見て取れる作品となっている。
’01年に公開され第75回アカデミー賞で長編アニメーション賞を受賞した本作について、子どものころから繰り返し観ている筆者が大人になってからスクリーンで観たときに発見したいくつかの視点を展開し、物語を読み解いていきたいと思う。
「異質」から読み解く『千と千尋の神隠し』
まずは、「異質」というキーワードから作品を読み解いていきたい。千尋は、神々の世界に迷い込んできた人間の少女だ。当然、人間の世界と隔てた場所で暮らしている者たちは千尋を忌(い)み嫌う。人間と異形の神々は、本来なら共存することが許されないからだ。
中盤で登場するオクサレ様は、異質なもの(人間が投棄したゴミ)を纏(まと)いながら自らを浄化しに油屋(本アニメの舞台となった温泉旅館)を求めてやってくる。そして自身の世話をした千尋に、苦団子を与えて去っていく。後にこの苦団子は、傷を負ったハクや巨大化したカオナシが食べ、それにより元の姿に戻る役割を担うこととなる。
千尋が迷い込んだ世界は人間には理解できない力で複雑に構成されていながらも、人間世界よりはるかに純度の高い(神が姿をなして存在できるほどの)世界だと考えると、人間がもたらしたもの、ひいては千尋も「異質なもの」すなわち「異物」だととらえられる。
千尋が元の場所に帰っていくこと、苦団子を食べてハクやカオナシが身体の中の毒を吐き出すこと。そういった展開から思い起こされるのは、本作が「純化の(まじりけのないものにする)物語」なのだということだ。
ジブリ作品はしばしば、スピリチュアル的な側面を持つことがある。最も明確な例を挙げるのならば、『もののけ姫』における木霊やシシ神などがそうだ。『千と千尋の神隠し』においても、人間の少女が神々との交流を通し、人という生き物の本質と穢(けが)れ、そして人ならざるものの実在を描いているのだと考えることができる。
「私が欲しいものは、あなたには絶対出せない」
また序盤では、店の食べ物を食い散らかした千尋の両親が湯婆婆の魔法により豚にされてしまう展開がある。恐れおののいた千尋はハクに助け出され、油屋で働くことを促される。この世界では働かざるものは豚にされてしまうということも、そのときに聞かされる。
油屋の就労システムは非常に人間的であり、怠惰な者はその象徴ともいえる豚に姿を変えられてしまうという掟(おきて)で「働くことの意義」「金が人々にもたらすもの」「怠けること、励むこと」というテーマを内在させている。
千尋に存在を認められたいがあまり、巨大化したカオナシが手のひらから出す砂金に群がる大人たち。しかし千尋はそれを拒み、こう言い放つ。
「私が欲しいものは、あなたには絶対出せない」
このシーンでは、金や物欲に支配されない子どもの千尋と対比させて、大人が醜く見えるように描き出している。食欲に支配されたがゆえに豚となってしまった千尋の両親も、欲深い人間ないしは大人という存在のメタファーとして描かれている。
ジブリ作品では、しばしば純粋な子ども像というのが描かれる。例として『となりのトトロ』に登場するトトロは、純粋な心を持つ子どもにしか見えない存在として登場している。純粋な存在を描くことによって、俗世における金や独裁といった欲の権化を反語的に表現しているのだ。
カオナシの正体
欲といえば、黒い半透明の身体にお面をつけた異様な生き物・カオナシにも言及したい。彼は自我を持たず、他の存在を体内に取り込むことによって喋(しゃべ)ったり意思表示をすることができる。彼は中盤で千尋に優しくされてから彼女に執着するようになり、千尋の欲しいものはなんでも出す、といった姿勢を見せる。しかし千尋はそれに応じないのだった。
「欲しくない、いらない」
カオナシの正体とはいったい何なのか? おそらくは、人間なら誰しもが持つ”相手に受け入れられたいと思う欲求”すなわち”承認欲求”ではないかと考えられる。
求めれば求めるほど膨張していくそれは次第に大きくなっていき凶暴化し、コントロールできなくなるカオナシの状態と似ている。自我があいまいな存在というのは、他者に認められることで安心を得ようとする。
カオナシはもしかすると本作の中で最も人間に近い存在であり、人間の心にあり続ける闇を具体化した存在なのかもしれない。彼は終盤、湯婆婆の双子の姉である銭婆の家に千尋と赴(おもむ)き、そこで初めて居場所を見つける。尽きない欲に翻弄(ほんろう)され、自我を求めて当てもなく放浪するさまは日本人の根底にある仏教観すら感じさせ、作品に深みをもたらすワンセンテンスを与えている。
『千と千尋の神隠し』はさまざまな視点から宮崎駿監督作品に通底する思想に考えをめぐらせることができると同時に、”目に見えない”ものに対しての華やかでありながら侘び寂びまでも感じられる描写を通して、瞑想(めいそう)に似た深い思考へと誘われる作品だ。
映画を鑑賞し終わったあとの吹き抜けるような余韻は、現代人に対し禅問答に似た究極の問いを投げかけ、やがて苦しみからの解放をもたらす。本作はそんな人々の心に訴えかける力を不動のものとしながら、映画に登場する6番目の駅で留まり続ける乗客のように、永久に名作として映画史に残り続けるだろう。
(文・安藤エヌ/編集・FM中西)