よく祈っている。それは私が僧侶だからか、いや、なんかそれ以上に、日常を生きていると祈らざるをえない光景を目にすることが多いからなのかもしれない。
例えば今朝、道を歩いていると、見るからに張り切って遠出してきたおばあさんが、日傘の露先の尖ったところを誤って横のおじさんに当ててしまい、厳しい口調で怒られている光景を見てしまった。
さっきまでホクホク顔だったおばあさんが「ごめんなさい」と頭を下げるたびに、きぃと胸が痛んだ。だっておばあさんはわざとじゃない。でも、おじさんだって恐かっただろう。ただの偶然が生んだ不条理、されどもそこに二人分のしんどみがあって、私もしんどい。とはいえ、ただの通行人Aでしかない私に何ができるのだろう。
気がつけば心の中で祈っていた。おばあさんの一日が幸せでありますように。天気がいいまま、今日の観光がうまくいきますように。おじさんの道中にも、珍しい花とかが咲いていてほしい。二人の前を通り過ぎてからも、しばらくそんなことを願っていた。
それになんの意味があったのか、私はうまく言葉にすることができない。ただの自己満足かもしれないし、もしかしたら本当におじさんは珍しい花に出合っているのかもしれないし。とにかくただ、そうせざるをえないから生まれているものだ。
祈りとは、なんなのだろう。
思えば、私たちはよく祈っている。神社やお寺、Twitter、道端のあちらこちらで。祈りとは日常的な行いで、古来から続けてきた人間の根源的な営みでもある。なのに、よくわかっていない。それを道としている僧侶の自分ですらもよくわからない。
ただ、聴いていると「これだよなぁ」と思える音楽がある。自分の身体の奥にしまい込んでいる祈りを思い出させてくれるような瞬間があるのだ。
《ただ 幸せが
一日でも多く
側にありますように》
──星野源『Family Song』より
星野源の音楽、この『Family Song』では、ド直球に祈りが歌われている。私にとって特別な一曲だ。
もちろん、こうした他者の幸せを願う歌がほかにないわけではない。特に『Family Song』が位置づけられるソウルやゴスペルというジャンルでは、普遍的な愛が歌われがちではある。
《いつまでも側にいることができたら
いいだろうな》
でも、なおもって、このまっすぐな祈りが、どうしようもなく胸を打つのは、いったいなぜなのだろう。
なぜ人は祈るのか。祈りとは何か。人間が持つそのような永遠の問いに、星野源の『Family Song』は触れている気がした。だから、わからないけど書いてみようと思った。あのとき、おばあさんやおじさんに祈りたくなった私は、間違いなく『Family Song』の中にいたのだ。
まっすぐな祈りを阻む無常という現実
星野源の音楽では祈りとともに、よく歌われているテーマがある。それは、すべてのものが移ろいゆくこと、すなわち「無常」である。
《僕たちはいつか終わるから
踊る いま》
──星野源『SUN』より
《いつまでも続くことなんかは
そうないさ マンガもそう 終わるのさ》
──星野源 『ブランコ(House Ver.) 』より
星野源はいつか私たちがいなくなることを歌ってきた。これまでの連載で書いてきたどの曲にも、その無常性は通底してあったように思える。また、その描き方は悲しみいっぱいにさめざめと、というわけではなく、ポジティブな諦めとして、とにかく冷静に歌われているように聴こえる。
無常に対する静観として、真っ先に思い出すのは『桜の森』の物語だ。
《僕はただ見てる それをただ見つめてる
花びらに変わる 君をただ見つめているよ》
──星野源 『桜の森』より
いかようにも捉えられる文学的な歌詞だが、まじまじと感じるのは、桜の木が花びらへと変わる瞬間、つまり生命が“モノ”へと移り変わる瞬間に対して、動ずることなく「ただ見つめてる」と歌う、その静観っぷりである。思いやりがないのでも、感情を殺しているのでもない。命の循環と共在しようとする、確かな息遣いを感じる。
『Family Song』においても、このような無常への静かな態度は垣間見える。
《救急車のサイレンが
胸の糸を締めるから》
《出会いに意味などないけれど
血の色 形も違うけれど》
寄せる死の影、私たちは根源的にひとりであること、その存在の儚(はかな)さが、サビの祈りの前にほのかに示されている。つまり、『Family Song』で歌われるまっすぐな祈り、それを耳にする私たちは、そのような願いが無常という現実に阻まれて「叶(かな)わない」運命にあることをすでに知っているのだ。
星野源リスナーならばなおさら、その耳にこれまで歌われてきた無常を焼きつけていると思う。そうした無常と祈りのコントラストは、他の曲の中にも見受けられる。
《決してもう二度と戻らぬ日が
いつまでも輝けばいいな》
──星野源 『生まれ変わり』より
《昨夜の寝相に
先立たれたかと焦る
増えていく しわに刻み込む
ああ できればこのまま
同じままで 同じように》
──星野源 『喧嘩』より
だからこそ、星野源の音楽から聴こえてくる祈りとは、単なる希望や、ましてや自分本意な欲望を叫んだものではないだろうと、私は感じている。
《いつまでも側にいることができたら
いいだろうな》
この世の無常を知り、自らの存在の非力さを噛みしめたうえで、それでもあふれ出てしまう何か。それはこぼれ落ちている。限界まで自己の“くだらなさ”を深く見つめようした眼差しが、他者への慈しみへと転じたものといえるのかもしれない。
「もうダメだ」と思ったときにやっと見える希望、「ここからいなくなりたい」と思ったときにそれでも生きたいと思える境地のように、自分の意思を超えてなぜか同時に沸きあがるものである。
星野源の詞の祈りの中には、常に「それでも」が隠れていると私は思う。その祈りは単なる気休めや思考停止から生まれたものではなく、ひとりきりの深い内省からこぼれ落ち、なぜか生まれた私の中の他者そのものだ。それは『不思議』や『恋』とも通じている。
《なのになぜ側に居たいの
他人だけにあるもの》
《二人をいま 歩き出す》
──星野源 『不思議』
《夫婦を超えてゆけ
二人を超えてゆけ
一人を超えてゆけ》
──星野源 『恋』
なぜ「二人『で』」ではなく、「二人『を』いま歩き出す」なのか。なぜ『恋』という普遍のタイトルで、「夫婦」や「二人」を超えないといけないのか。星野源はとことんまで「ひとりであること」を突きつめる(詳しくは連載の第1回)。
そうした“ひとり観”の執念を突破して、極限にまで素直に「他者」が現れた形が『Family Song』で歌われる祈りなのだと私は思う。
《ただ 幸せが
一日でも多く
側にありますように》
だからこそ、『Family Song』はすごいのだ。そのサビが歌われるとき、今この場でひとりの人間から祈りが生まれている。テキストとしてあらかじめ用意された歌詞が歌われているのではなく、自分を含めた他者への慈しみがその瞬間に誕生しているのだ。「もはや歌じゃないやん」とすら思ってしまう。いや、もちろん歌なんだけど。
《あなたは 何処でも行ける
あなたは 何にでもなれる》
まっすぐな詞だけれども、どうしようもなく胸を打つのは、その言葉が通ってきた道が見えるからなのではないだろうか。かつて《ギャグの隙間に 本当の事を 祈るみたいに隠して》(『ギャグ』)と歌っていた人間が、今まさに「本当の事」を歌っているのだと。そんなひとりの人間の物語すらも頭をよぎってしまう。
私にとって『Family Song』は特別な一曲なのだ。
源問答はつづく
あのとき、なぜ私はおばあさんとおじさんに祈りたくなったのか。祈ったところで何になるというのか。ぶっちゃけ、わからない。
『Family Song』から紐解けば、祈りとは深い内省の末に、不思議と生まれる私の中の他者といえるのだろうか。さらに言えば、祈りとは祈った先の結果ではなく、その過程にこそ意味があるといえるのかもしれない。
でも、それだけで何も語れたわけではないし、言葉を置くことによって今朝の気持ちからは遠のいていくような感覚すらする。
なぜ人は祈るのか。なぜ私は手を合わせるのだろう。その永遠の問いとともに、今は野生のブッダとの源問答は続けたいと思う。
おじさん、珍しい花は見つかっただろうか。そろそろ、星野源のANNが始まる。
(文/稲田ズイキ)
《PROFILE》
稲田ズイキ(いなだ・ずいき)
1992年、京都府久御山町生まれ。月仲山称名寺の副住職。同志社大学法学部を卒業、同大学院法学研究科を中退のち、渋谷のデジタルエージェンシーに入社するも1年で退職。僧侶・文筆家・編集者として独立し、放浪生活を送る。2020年フリーペーパー『フリースタイルな僧侶たち』の3代目編集長に就任。著書『世界が仏教であふれだす』(集英社、2020年)