笑いは世に連れ、世は笑いに連れ……。「芸人」は、はるか昔から日本のエンタメの中心で活躍し続けている存在だ。お笑いファンでない限り、テレビやSNSでしか芸人を見ないかもしれない。しかし、最もリアルでかっこいい芸人の姿を見られる現場は、劇場・ライブハウスでの「お笑いライブ」だ。
もちろん、1回1回が撮り直しナシの真剣勝負。会場が揺れるくらいドカンとウケる芸人もいれば、見ている側が気まずくなるくらいスベる芸人もいる。そこでは、キラッキラなテレビ番組とは違う「泥臭い人間ドラマ」が連日、繰り広げられている。
そんなお笑いライブを年間700~1000本以上という超ハイペースで企画しているのが株式会社K-PROだ。三四郎、アルコ&ピース、ランジャタイなど、今や世間の人気者となった芸人がK-PROの舞台で腕を磨いてきた。
K-PROの代表であり、20年以上にわたって、スタッフとしてお笑い芸人を支えてきたのが児島気奈(こじま・きな)さん。間違いなく「日本で最もお笑いを観ている人間」のひとりである。
児島さんは、なぜこれほどディープな「お笑いライブ」の現場を続けることになったのか。これまでの人生を振り返りながら、「お笑いライブの魅力」について語っていただいた。
お笑い好きのテレビっ子に訪れた転機は、中学の入学式
──もう20年以上もお笑いライブに携わっていらっしゃる児島さんですが、小さいころから、もともとお笑いが好きだったんですか?
「はい。小学生のときは学校から帰ってきたら毎日テレビを見る『テレビっ子』でしたね。それと、芸人さんのラジオも日常的に聞いていました」
──学校でも友だちとお笑いの話をしたり?
「してましたね~。“昨日のあの番組、見た?”とか。小学生のときはアクティブで、帰りの会で一発ギャグをするような子でした。
女の子より男の子のグループと一緒に遊ぶタイプだったんですけど、イケイケの男子じゃなくて、どっちかっていうと文化系の子と仲がよかったです。『爽やかにスポーツをする』とかじゃなくて、『池でカエルの卵を取ってくる』みたいな(笑)」
──だいぶ文化系ですね(笑)。そのグループでもお笑いの話を?
「してましたね。周りの女の子は、“ジャニーズの〇〇君かっこいいよね”とか、だんだん色気づいていってたんですよ。でも私は、“ウッチャンナンチャンのキャラクターコント面白いよね”とか、“テレビでやってたあのギャグ、今度の帰りの会でやろうよ”とか、お笑いのことばっかりで(笑)。当時から、面白いことを周りに広めて共感してもらうのが好きだったんですよ」
──なるほど〜。もうすでに、今の児島さんの土台が構築されていたんですね。
「それで中学生になるじゃないですか。入学式のあとに各クラスに分かれて自己紹介する場で、“私はお笑いが好きです”って自己紹介したんですよ。そのときにクラスメイトの女の子から、“女子なのにお笑い好きって変わってるね”って言われたんです。
それを今でも強烈に覚えてます。“あ、いま気持ち悪いと思われたな”っていう」
──えぇ! 「女の子でお笑い好き=変」ってのは、今だと考えられないですね……。
「当時はまだお笑い文化が今ほど浸透していなかったんですよね。たしかに周りの子はみんなSMAPとかTOKIOの話で持ちきりでしたから。
そこで私は、“気持ち悪いと思われたくないから周りに合わせる”ではなく、むしろ、“それでもお笑いが好きだ”とはっきり自認したんですよ。“もう、わかってくれる人とだけ仲よくしよう”って固く決意したんです。思えば、この瞬間が大きな転機だったのかなって」
──いや、すごい。中学に入学した日に開き直れるってめちゃめちゃ強いですよ。「いじめられるのが怖い」みたいな感じで周りに合わせちゃいそうです……。
「今もそうですが、私は根が”かたくな”なんですよ(笑)。
ただ中学生以来、積極的に人前に出ていくことはなくなりましたね。陰キャというか“男子の三軍”みたいなグループに属して、お笑いの話をするという感じでした」
──三軍ってのがいいですね(笑)。私が中学時代に三軍の補欠みたいなヤツだったのでちょっとわかるんですが、彼らは好きなことにめちゃめちゃ真剣ですよね。
「そうですね。私も当時から『顔が好き』とかじゃなくて、とにかく『面白いか面白くないか』で芸人さんを観ていました。だから、同じ熱量で語れるのが三軍の男子しかいなかったんです。
すると先生もだんだん『お笑い好きの子』として見てくれるようになって、“コント55号のビデオあるから貸してあげようか?”とか言ってくれたり」
──入学の日をきっかけに「お笑い好き」としてアイデンティティを確立していったんですね。
「はい。中学生の時期は、今の自分を語るうえで大きかったと思います」
『ボキャブラ天国』で若手お笑いのよさに気づく
──でも、クラスの女子からいじめられなくてよかったなぁって思います。
「いじめとかはなかったですし、中学生のときに“ボキャブラブーム”(※)が来たんですよ。それで、お笑いを見てなかった女子たちが、急にみんな若手芸人のファンになったんです。私的には、“ようやくお笑いのよさをわかってくれたか”って(笑)」
(※ 1992年〜1999年までフジテレビ系列で断続的に放送されていたお笑いバラエティ番組シリーズ『ボキャブラ天国』が大人気に。シリーズの途中から、若手芸人がネタ見せを行うコーナーが追加された)
──“こっち側”に来たんですね。『ボキャブラ天国』って、そんなにすごかったのか……。
「いや、すごかったですよ。最近でいうと『第七世代ブーム』が来ましたけど、比べものにならないくらいでした。私も大好きでしたね」
──『ボキャブラ天国』のどこに魅力を感じたんですか?
「ウケた場面だけじゃなく、スベッた姿も放映されるんですよ。つまらなかったら、本当にスタジオがシーンってなって、タモリさんやヒロミさんが苦笑いする。それを一切カットしないんです」
──うわぁ、シビアですね。
「そうなんですよ。このときに初めて『スベる』という感覚を知りました。『スベった顔』の芸人さんを見るのも初めてだったし、自分でも、“うん。確かにこれは面白くないな”という感じが分かるというか。
そのうえランキング形式だったので、勝った・負けたがありました。若手芸人さんが一喜一憂している姿に“青春”を感じたんですよね。負けた芸人さんとかは応援したくなるし、そこからはい上がる姿にストーリーがありました。
それまでは、すでに売れている大御所しか観ていなかったんですが、ボキャブラで初めて『若手ならではのリアルさ』に惹かれたと思います」
──なるほど。「若手芸人のリアルな姿」という意味でいうと、今のお笑いライブにも通じますね。そう考えると“リアリティ”も、児島さんにとって大きなキーワードなんですね。
「そうですね~。当時からリアリティのある作品のほうが好きでしたね。流行(はや)ってたドラマも見てはいたんですけど、“キムタク主演!”みたいな華やかなドラマは感情移入ができなかった。それより『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系)を観て、“あ~、こういうおばちゃんいるよな~”みたいな。そっちのほうが好きでしたね」
──今でいうと中高生に「恋愛リアリティショー」がウケてる、みたいな感覚というか。当時から近い感覚があったんですね。それから高校に上がるわけですが、中学時代との変化はありましたか?
「まず、“もっとお笑い界を知りたい”と。それでラジオを聴いて、『私が好きな芸人さんに影響を与えた先輩』を調べるようになりました。いろんな芸人さんのルーツをどんどん深掘りしていたと思います。思春期は本当にお笑いのことしか考えてなかった(笑)」
「絶対に見返してやる」と誓った初めてのライブスタッフとしての経験
──なるほど。『芸人さんのルーツを調べる』という行為も『これまでのストーリーをたどる』ということですよね。テレビ画面の姿をそのまま受け入れるというより、やっぱりリアルな姿のほうに興味があったんでしょうか。
「そうだと思いますね。それでお笑いにどっぷりハマっていた高校3年生のときに、文通をしていたお笑い好きの友だちから、“今度、なかの芸能小劇場で芸人さんのライブのスタッフをするんだけど、一緒に行かない?”って誘われたんですよ」
──いきなりスタッフだったんですか。
「はい。実は純粋にお客さんとしてライブに行ったことはなかったんです(笑)。
それで、はじめて劇場に足を運ぶのってちょっと怖いじゃないですか。だから事前に手伝いの下見をしようと父を連れて、なかの芸能小劇場にライブを見に行ったんですよね。こっちとしては、“憧れのネプチューンに会えるかも……”っていう期待でワクワクしているわけですよ。
でも行ってみたら想像と全然違って、見たことない芸人さんしかいない。しかも、ちょっとカルト芸人的なライブだったんでパンツ一丁の芸人さんとかもいて。帰りに父が、“これ……本当に大丈夫か……? ここでスタッフやるのか?”って(笑)。
──たしかにお父さんとしては心配になっちゃう(笑)。
「そうですよね。でも両親は常日ごろから、“とにかく家でテレビを見るだけじゃなくて、外に出て体験してみろ”って言ってくれていたので、応援はしてくれていたんですよ。それで、とりあえずやってみようと思ったんです。
で、ライブ当日になっていざ現場に行くと、もちろんテレビに出ている芸人さんはいない。しかも正直言ってネタも面白くない。そのうえ、誘ってくれた友人は顔がかわいい子だったんで、演者から「え~、新人なんだ~。かわいいねぇ」ってちやほやされてるんです。一緒に来ているのに私は声もかけられない。もう途中からふてくされて、“あぁ、早く家に帰って録画したお笑い番組見たいなぁ”とか思いながら楽屋でサボってたんですよね(笑)」
──(笑)。
「そうしたら、演者の落語家さんに見つかって、“なに新人がサボってんだ!”って灰皿を投げつけられたんですよ」
──えぇ、怖っ。
「普通、『怖い』って感じますよね。そう思えたらよかったんですけど、私は腹が立ったんです。“なんで名前も顔も知らないヤツに怒られなきゃいけないんだよ!”って(笑)。とにかく悔しくて、“絶対に見返してやる”と」
──そう思えることがすごいです。児島さん持ち前の「強さ」ですよね。例えば僕なんてゴリゴリの“ゆとり世代”なんで、初めての現場で灰皿投げられたら「え、だるっ、帰ろ。おつかれさまでした~」ってなっちゃう。
「子どものときから気が強かったのは大きいと思います。ただそれ以外に、そもそも、“こっちは名前も顔も知らないのに手伝ってやってるんだぞ”っていう気持ちがあったんです。だから悔しかったんですよ。
それで、“次のライブもスタッフとして参加しよう”と。ここからスタッフ生活が始まりましたね」
──なるほど。でも、いわゆる初期衝動が「悔しい」だと、芸人さんにネガティブな気持ちを持ってしまいそうだと思いました。どうして「サポートしたい」っていう前向きな気持ちに変わったんですか?
「やっぱり芸人さんのかっこいい姿を間近で見ていたからだと思います。スタッフを始めた高校3年生のころって、ボキャブラブームが下火になってきてライブシーンも過疎化していたんですよ。『お客さんが10人もいないライブ』っていうのがザラでした。
それでも出番を待つ芸人さんって、緊張して手が震えてるんですよね。出番を終えて楽屋に入った瞬間に、ネタのことで大ゲンカする芸人さんもいる。そうした姿を間近で見ていて、“芸人さんってかっこいいなぁ”と尊敬できたんです」
──芸人の「本気」が伝わってきたんですね。
「そうですね。それで『見返してやる』から『認められたい』に気持ちが変わりました。だから特に最初のころは、ほめられることがやりがいでしたね。
でも当時は芸人さんも厳しくて、例えば“飲み物買ってきて”と言われたとき、こっちはほめられたいから走って買ってきますよね。それで息を切らしながら手渡したら、“いや、お前の頑張りとか求めてねぇから。疲れてるところ見せんな”って逆に怒られたり……。それで、“ほめられるためにはどうしたらいいんだろう”って、失敗から学び続けていました」
──めちゃめちゃスパルタですね。そういったシビアな現場だと強くなれそうです。
「もちろん鍛えられました。ただ、ものすごくひねくれましたよ(笑)。顔では反省の表情をしつつ、腹の中では、“私がどんだけ頑張っても、所詮かわいい子とか身のこなしがうまい子のほうが、かわいがられるんだよなぁ”って思うこともありました(笑)」
──(笑)。そういった状況もあったんですか?
「ありましたね(笑)。例えば芸人さんに、“今日の俺のネタどうだった?”って聞かれたとき、私は正直に“前回のときの展開のほうが好きでした”と感想を言ったんです。すると芸人さんはムスッとして、ほかの子に“どうだった?”って聞きにいくわけです。
その子が、“すごく面白かったです〜”と答えたら、“だよなぁ。自信あったんだよねぇ”と……。それで、“あぁはいはい。そっちのほうがいいのね”みたいな(笑)」
──(笑)。でもやっぱりそこまでお笑いに熱いからこそ、20年も続いてるんだと思いますよ。
「そうですね。たしかにいろんなスタッフを見てきましたけど、ただ『お笑い芸人が好き』だけでは続かないと思います。“たとえボランティアでも、私にやらせてほしい”と思えるくらい、お笑いへの情熱や意地がないとスタッフは続けられないですね」
※後編では、「K-PROの立ち上げ時期から今日に至るまでの児島さんのストーリー」や「YouTube全盛の時代だからこその舞台にかける思い」について紹介する。
(取材・文/ジュウ・ショ)