ちょんまげに丸めがね、白いフリルシャツに、赤チェックのデカズボン。
独演会の会場は満席(とはいえコロナ禍なので間引きしているが)だった。個性的すぎるいでたちで現れたぴろき(56)は、開演前にもかかわらず自らマイクのテストをこなし、前方の客たちに親しげに話しかけている。いざ高座に上がると、抱えたウクレレをぽろん、と鳴らしたまま、客を見渡す。そこここで笑いが起こると「何か問題ありますかね」と問いかける。いつ聞いても何度見ても、誰が見ても笑いが漏れる。
「娘が髪を染めてきたんですー。親からもらった大事な髪を染めるなと言ったら、娘が言いました。“親からもらった大事な髪、禿(は)げたりするな”って」
岡山から東京に進学し、寄席通いの日々
彼のネタは基本的に自虐である。誰も傷つけず、自らを削(けず)って笑いをとる。その姿勢は、ぴろきの大好きなピエロそのものであり、衣装もピエロからヒントを得ているという。
「笑いの原点がピエロだと思うんです。だから迷ったり悩んだりしたら、そこに戻ることにしています。“そうだ、自分がバカになればいいんだ”と」
芸歴39年。ウクレレ漫談の芸人として独自の世界を切り開いてきた。近年、ダウンタウンの松本人志をして「天才」と言わしめ、若い女性たちからは「かわいい」と黄色い声が上がる。だが、ぴろきは驕(おご)らず、ぶれず、自分の目指す道を淡々と歩んでいる。
岡山県に生まれたぴろきは、中高生のころ「お笑いブーム」にどっぷりはまった。
「漫才はおもしろいなあ、僕もやってみたいなあと思っていました。もともと、人を笑わせるのは大好きだったし。だけど“お笑いの道に進みたい”なんて言ったら、当時は親から勘当(かんどう)ものです。だから“東京の大学へ行きたい”と言って受験し、合格したので出てきました」
上京してからは、学問は二の次でひたすら寄席通い。とうとう中退して、浅草を中心に活動していた人気芸人・東八郎(あずま・はちろう)が開いた養成所『笑塾』へ。ところが師と仰いだ東が急逝し、浅草ロック座(ストリップ劇場)専属のコメディアンとなった。当時は相方もいて、コンビ漫才をやっていた。
「食うや食わずのド新人時代……と言いたいところなんですが、当時はバブル真っ盛り。売れない漫才師でもなんとか食えてしまった(笑)」
しかし、相方が辞めてしまい、ひとりになったぴろきは次の相方に『ウクレレ』を選ぶ。
「“どうしてウクレレだったんですか”と聞いてもらえます?」
言われたとおりに尋ねると、まじめな表情になってたっぷりと間をとる。
「そこにウクレレがあったから……」
この見事なはずしっぷり。ここに、ぴろきの真骨頂がある。
「実はね、ウクレレって僕が最初に触った楽器だったんですよ。これは本当。戦後、日本にハワイアンブームがあったらしくて、そのときオヤジが買ったんでしょうね。家にウクレレがあったんです。母親はピアニストを目指したこともあるみたいで、家でピアノを弾いていましたが、僕が先に触ったのはウクレレ。ウクレレを相棒にしようと思ったとき、そういえばと思い出したんです」