「高円寺」という街の名前を聞いて思い浮かべるものは何ですか? 芸人が住む街、古着屋、サブカルチャー発祥の地……。JR中央線の駅のひとつである高円寺は、ほかの東京の街にはない魅力を感じて目指してくる若者も多く、活気にあふれています。
昨年放送された『出没!アド街ック天国』(テレビ東京系)の「芸人さんたちの高円寺」回で、マヂカルラブリー・村上さんがM-1優勝とともに叶(かな)えたかったもうひとつの夢が「『SHOW-OFF』の表紙を飾ることだった」と発言。高円寺芸人にとってはひとつのステイタスとなっているようです。
今回は、高円寺のフリーペーパーとして23年の歴史を誇る『SHOW-OFF』を発行する有限会社HOT WIRE GROUPの代表取締役で、編集長も務める佐久間ヒロコさんにお話を聞きました。
2000年11月創刊のフリーペーパー。年4回発行の季刊誌。高円寺にゆかりのあるミュージシャンや芸人などのインタビューやコラム、高円寺のカルチャー、ショップ紹介といった読み物が充実している。編集・発行はイベント制作やデザイン制作など、地元・高円寺を活性化する事業を展開するHOT WIRE GROUPが行う。主な配布場所は高円寺のカフェ、古着屋、ライブハウスなど。
カフェのPRのために冊子を作ろうと思ったのがきっかけ
──まず、『SHOW-OFF』とはどういう意味なのでしょうか?
「直訳すると“見せびらかす”っていう意味ですね。私は古い車が好きなのですが、アメリカには日本でいう『トミカ』みたいな『HotWheels』というミニカーのブランドがあって、そこが古いフォードの車のおもちゃを出していたんです。その車の愛称が『SHOW-OFF』で、調べたら“見せびらかす”という意味だとわかって。“面白い本ができたら、みんなに見せびらかす”という意味で、すごく合っているなって思って付けました」
──印象的な名前ですよね。
「でも電話口の向こうの人には“娼婦”って聞き間違えられたりして(笑)。字面で見ないとわかりづらいのは予想外でしたけど」
──『SHOW-OFF』はどのようにしてスタートしたのですか。
「『SHOW-OFF』は、自分の店のPR冊子を作ろうって思ったのがきっかけです。
もともと私は建築関係の仕事をしていて、設計をする事務所として立ち上げたのが今の会社だったんです。洋服や音楽、車も古きよきアメリカのものが好きで、とにかくアメリカに行きたくて、仕事の合間に旅行に出ていました。でも根が商売人なので、海外で古着を買ってきて知り合いの洋服屋に販売していたんです」
──今でいうバイヤーですよね。
「建築の仕事が本業だったので、古着はサイドビジネスのつもりでした。そこから店を出すことになって、知り合いも多い高円寺にしたんです。原宿は家賃が高かったですからね。
1995年に高円寺に『HOT WIRE』という古着屋を出店したのを手始めに、古着屋を何軒か経営する中で、今度は『HOT WIRE CAFE』というメキシコ料理店を高円寺ルック商店街に出したんですよ。そのお店のPRをしようと思ってチラシを作ろうと思ったんです」
──フライヤーのつもりが、冊子になったのですね。
「2000年って今みたいな印刷技術もないし、デジカメも貴重。まだ写植(注・写真植字の略。文字を印画紙やフィルムに焼き付け、映し出す方法)と呼ばれるやり方で作っていたので、冊子を作るのもハードルが高かったんです。でも私の周りにそういうものが作れるデザイナーやカメラマンがいたんですよ。私は編集業をやっていたわけではなかったのでツテを頼りながら2000年5月から取材を始めて、実際に発行できたのは12月になっていました。表紙の撮影も夏だったから、薄着なの(笑)。もう創刊号は1冊しか残っていないんです」
高円寺にある古着屋200店舗をすべて自分でリサーチ
──時代を感じさせず、カッコいいデザインですね。中身はどのような感じでしたか?
「高円寺のお店やストリートファッションとか、いろいろなカルチャーを紹介しています。今ではファッション感覚になっているタトゥーも取り上げていて、当時は“こんなものを記事にするのか!”って賛否両論になったんですよ」
──現在の誌面にも高円寺MAPが載っていますが、いつごろから掲載しているのですか。
「創刊号から載せています。私が初めて古着屋を出した’95年には、まだ5軒ほどしか店がなかったのに、2000年にはもう200軒近くになっていたんです。高円寺にある古着屋を全部回って、地図に落とし込んだのが最初ですね」
──古着屋MAPを作るとき、ライバルともいえる同業者の店を無償で掲載したのはなぜですか?
「なんでそんなことをやっているの? って同業者からも結構言われましたね。でも、そもそも古着屋自体が5軒ほどだとお客さんって集まってこないんですよ。それが200軒になると、“高円寺は古着の街”って認識されて地方からもお客さんが来るようになるんです。そのためにはPRが必要だって、店側には説得しました。目先のことだけにとらわれない。商売ってそういうもんなんじゃないかなって思うんです」
──今のようにGoogleマップなどがない時代だから、貴重な情報ですよね。
「そうですね。(創刊号をめくりながら)創刊当初は、サブカルと言うよりはポップカルチャー方面の方が誌面に登場するのは多かったですね。これは友達のイラストレーターに描いてもらったんです」
──Rockin’Jelly Bean(ロッキン・ジェリー・ビーン。海外でも評価の高いポップアートの画家)さんですよね。
「そう。今だともう描いてもらえないと思うけれど(笑)。こうやってクリエーターの仲間と、凸版印刷に知り合いがいたのが大きいですね。こういう形式の冊子は、当時は凸版くらい大手の技術がないと作れなかったんです。いきなり16ページの冊子を作って、配り歩いていたんですよ。そうしたら“これはすごい! “って周りから言われるようになって、続けることになったんです」
カメラマンもデザイナーもライターも、出演者も「ノーギャラ」
──最初の制作費はどうされていたのですか。
「もう全部自前です。それは今も変わりません。あとはみなさん全員ノーギャラで手伝ってくださっているのが大きいですね。出演者も執筆者も、デザイナーもカメラマンも、SHOW-OFFに関してはノーギャラです。今、費用としてかかっているのは印刷費だけですね。2号目から広告が増えたので、ページ数も増やしたんです。でも印刷費以上の広告収入を得る必要はなかったので。まずは印刷費だけまかなえればって思っていました」
──『SHOW-OFF』の表紙に著名人が出るようになったのはいつくらいからですか?
「いちばん初めに有名人に出てもらったのは、なお君かな(と言って、表紙を差し出す)」
──なお君?? 俳優の大森南朋さんじゃないですか!
「友達の友達みたいな。当時の表紙はみんな、誰かしらの知り合い(笑)。高円寺は今みたいに芸人の街というよりは、どっちかっていうとロックの街だったのでミュージシャンとのつながりが強かったんです。でもここ最近は、芸人さんがガーッと来ていますね」
──増子直純さん(バンド「怒髪天」のボーカル)も、表紙になっていますね。
「増子さんって、私が古着屋の『HOT WIRE』をやっていたときに来ていたアメリカン雑貨の業者さんだったんです。だから彼は『HOT WIRE』のこともよく知っているはず(笑)」
──確かに増子さんがフムニューのインタビューに登場された際も、昔、雑貨店の店主をしていたと語られていました! ちなみに表紙を誰にするか決める際に、“ちょっと違うな”っていうことはありましたか?
「そういうことはありますよ。有名だからいいわけじゃない。例えばですけど、キムタクが表紙をやってくれるっていったらそれはもちろん嬉しいですけど、高円寺のイメージとは違いますよね(笑)。やっぱり直球ではないというか。以前に知り合いから、バブルが似合いそうなある女性タレントさんを表紙にとすすめられたけれど、お断りしました。街のイメージとそぐわないと違和感がありますからね」
──やはり、そこは高円寺のイメージと合うかどうかが重要なのですね。
「これだけ長く続けていると、出たいという人から声をかけられるんですよ。私がよく行っているバーにマヂカルラブリーの村上さんも来ていたらしくて、ずっと“『SHOW-OFF』に出たい”って私に言っていたらしいんです。本当、失礼なんですけど、全然覚えてなくて(苦笑)。私はそれを鼻であしらって、“もっと頑張ってからね”って言っていたらしいです(笑)。今はもう大逆転ですよね」
──私の周りでも『SHOW-OFF』に出たら高円寺に認められたということと言っている子がいました(笑)。
「それってやっぱり高円寺という街がなせる技なんじゃないかなっていう気もしていて。
最初にみうらじゅんさんにオファーしたときも、ノーギャラというお話をして受けてくれたんですが、“これが渋谷のフリーペーパーだったら絶対に無償はないんだよ”って言われたんです。“高円寺のフリーペーパーだからお金はいい”って。高円寺っていい街だなと思って」
高円寺はお金のにおいがしない街
──高円寺のどういう部分に、著名人は惹(ひ)きつけられていると思いますか。
「みうらさんが“高円寺ならいいよ”って言ってくれたのは、たぶん、お金のにおいがしないからなんですよね。高円寺を使って売名行為をしようとしてもできないでしょ? っていう。そういう部分じゃないですかね。街が人を育てているなっていう気はしますよね。でも芸人もミュージシャンも売れるとみんな高円寺からいなくなるから、よく『踏み台の街』って言われているみたい(笑)」
──これまでで、問い合わせが多かったのはどの号でしたか?
「タブレット純さんが表紙の号(88号・2022年12月15日発行)かな。地方の方には、切手を送っていただいて郵送しているのですが、歴代でいちばん問い合わせが多かったかもしれないですね。手間をかけても欲しいって人は熱狂的なファン。特にほかのメディアにあまり出ていない人の場合は、貴重なのかもしれないです」
──改めて23年という歴史をどう感じますか。
「23年という歴史があるので、誌面作りもだいぶやりやすくなっていますよね。長年継続してきたことで、著名人の方もノーギャラで出ていただけているのだなと思います。改めて見ると、1、2号の古着屋マップに載っているお店に全部自分で行ったと思うと、ぞっとしますね(笑)。今だと絶対にできないですよ」
──ほかの人がやっていなかったことを始めるのは、パワーがいると思います。
「今は印刷やデザインが簡単にできるようになってきたけれど、周りの人がまだやっていないころに『SHOW-OFF』を始められたっていうのはよかったんじゃないでしょうか。フリーペーパーって、’00年代にちょっとブームになったんです。それで、どこも真似をしてフリーペーパーをバンバン出していたけれど、ほとんど廃刊になっている。その中で、ずっと続けていられるっていうのは本当にラッキーでした」
──話をお聞きしていると、ノーギャラでも協力したいと思わせる魅力があるんですよね。
「私は『SHOW-OFF』自体で儲けようとはまったく思っていないんです。誌面にそういったビジネス色が出ていないっていうのはあるかもしれないですね。ただ、『SHOW-OFF』をやるために、ほかの事業できちっと収益を得ようって思っています。これまでどおり、印刷代を出し続けていけるなら続けていきたいなっていうのはありますね」
──今はウェブ媒体も増えてきています。その中で、印刷にこだわる理由はなんですか。
「やっぱり紙物が好きなんですよね。ウェブとかデジタル系が増えてきたけれど紙も作りたがる会社なんで(笑)。例えばインターネットを見ていても、大事な部分は出力して紙で読みたいなって感じる。『SHOW-OFF』もウェブマガジンにしてもいいのかもしれないけれど、ネットじゃない代わりに発行部数の人口にしか読まれない。それがまたいいのかなっていう気もしています。やっぱり紙のほうがプレミアム感もありますね」
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『SHOW-OFF』の表紙を眺めているだけで行ってみたいと思ってしまう、東京の中でも不思議な親しみやすさがある街・高円寺。後編では、佐久間さんが手がける『高円寺フェス』のことや、高円寺という街の移り変わりについてお聞きします。
(取材・文/池守りぜね)