2人をよく知る知人が語る夫婦像
充さんは、盆栽に適した「鹿沼土」で知られる栃木県鹿沼市で育った。10代のときに就職するため弟2人と上京。町田市内の工務店に住み込み、見習い大工になった。
「寡黙(かもく)でまじめな職人気質の男。従業員の慰安旅行に行っても、ひとりだけ外に飲みに行かず部屋でじっとしていたらしい。トレードマークの角刈りは、流行に乗ってパンチパーマをかけても、すぐ元どおりに戻しちゃう。笑うと、くしゃっとした愛嬌のある顔をするんだけどね」(知人男性)
正子さんと出会ったのは、町田市からそう離れていない神奈川県川崎市。よほど気が合ったのか、交際してすぐ、互いにまだ10代のとき結婚し、一男一女に恵まれた。
「照れ屋だから夫婦のなれ初めについては詳しく教えてくれなかった。所帯を持って責任感が増したのか、仕事の腕も上がり、やがて基礎工事に欠かせない『型枠大工』の道へ進んだ。酒、女、ギャンブルはいっさいやらないし、はたから見ればつまらない男かもしれない。でも、正子さんはそんな充さんが好きで一生懸命に支えてきたんだ」(同)
恰幅(かっぷく)のいい充さんに対し、小柄でほっそりした正子さんは、性格が明るくチャキチャキしたタイプ。職人の妻として申し分なく、質素倹約に努め、着るものも地味だった。毎朝6時に職場に集合しなければならない充さんのため、午前4時には起床して愛妻弁当を作った。
正子さんを知る女性は言う。
「充さんは腎臓が悪かったので薄味の弁当を作ってあげていた。昔気質の男だからそうやって尽くしても、旅行やレジャーに連れて行ってくれるわけでもないのにね。やがてひとり息子も同じ型枠大工となり、一家は工務店での住み込みをやめて父子でローンを組み、近所の中古住宅を購入したんですよ」
充さんが55歳のころのこと。父子は大工の腕を生かし、古い木造家屋の柱以外はほとんど壊して後輩職人らときれいに建て直した。庭に充さんの唯一の趣味である盆栽を並べて。故郷・鹿沼の土はサツキ栽培に適しており、毎年5~6月には白やピンク色の鮮やかな花を咲かせた。
結婚した娘が子どもを連れて遊びに来たり、同居する息子にも子どもができ、賑やかな生活に。充さんは前出の知人男性にこう話した。
「孫が学校から帰ってくると、友達を連れてきたりして家の中は運動会だ」
困ったふうに言いながら、うれしくてしょうがない様子だったという。
しかし、ささやかな幸せは長く続かず、病魔が正子さんを襲った。さらに息子が突然がんに侵され帰らぬ人に。充さんは70歳を越えて続けていた仕事を辞めた。