被災者の切なさや寂しさを知ったからこそ
里見喜生さんは原発事故後、旅館経営のかたわらで被災地のガイドをはじめた。それがきっかけで、地域の支援に取り組むNPOなどの人びとと交流を深めた。その仲間とともに2014年に訪問したのが、熊本県水俣市だった。民間団体として水俣病事件を伝えている「相思社」による「水俣病歴史考証館」を見学し、感銘を受けた里見さんは、自身も原子力災害の「考証館」を建てようと決めた。
──温泉旅館の中に施設を作ることへの心配はなかったですか。
里見:地域の“声なき声”を伝える展示をやらなければいけない。「誰もやらないんだったら僕がやるぞ」って気持ちでした。でも、ここは観光地でもあります。「施設を作るだけで町のマイナスになる」という意見ももらいました。そうすると、「ああ、やっぱりやめようかな」と思ったりもしまして。部屋の準備は2018年に完成しましたが、スタートにはそれから3年もかかりました。
──3年間の葛藤がありながら、オープンに踏み切った理由は何だったのでしょう。
里見:この旅館は300年以上の歴史があります。戊辰戦争のときに丸焼けになったり、東京大空襲では、疎開先として関東の人をお預かりしました。そうした歴史は、先祖がきちんと残してくれたので僕も知ることができています。それを思うと、イメージがいいか悪いかにかかわらず、この地域に起きたことは原子力災害を含めて継承する必要があると思ったんです。語らなかったり、残さなかったりしたら、そのあいだ歴史は空白になります。例えば、この古滝屋の歴史が1千ページの本だとしたら、原子力災害もその1ページではある。その1ページは僕がきちんと記録しておきたいと思いました。
「考証館」はオープンから半年あまりが経った。正確な訪問者数は記録していないが、里見さんが施設の見学に立ち会い、直接会話を交わした人だけでも600人ほどになるという。木村さんの展示だけでなく、写真家・中筋純さんによる被災地の写真や、福島第一原発近くに位置する浪江町生まれの歌人・三原由起子さんの短歌の紹介などがある。
──なぜ、市民による施設が必要だと考えたのですか。昨年9月には、公的なアーカイブ拠点施設と言われる「東日本大震災・原子力災害伝承館」(福島県双葉町)もオープンしましたが。
里見:原子力災害に特化した施設が必要です。自然災害(地震・津波)と今回の人災(原子力災害)はまったく別の問題であり、一緒の建物にすると焦点がぼやけます。「原子力災害も津波という自然災害の一部だからしょうがなかった」と思っている人は割と多いんです。でも、本質はぜんぜん違います。行政や企業が施設をつくるとき、発注者に都合の悪いものは削いでしまうと思います。切り口はたくさんあるべきです。
僕は、双葉郡の人たちと直接話をしてきました。ご家族と離ればなれになったり、故郷を失ったり。そういう切なさや寂しさを毎日のように見聞きしました。これを知っている人が出していかないと、福島で起きたことが、一方的な情報ばかりになって収められてしまうのではないかと思っています。
──考証館をどういう施設にしたいですか。
里見:ここに来たのをきっかけにエネルギー問題を考えてほしい。「どんなエネルギーを使うのか」だけでなく、「どれだけエネルギーが必要なのか」ということまで。大きい話になってしまいますが、最終的には地球に住む生きものとして、我々はどのような暮らしを選択すべきなのかということも、考えてほしいです。考証館がすべてだとは思いません。ここはここで“声なき声”を表現しますし、他の施設は、例えばデータや統計に基づいて表現するでしょう。「これが原子力災害だ」と一言で言い表せないのが原子力災害ですので、この地域に来ていろいろなところを見て、考察のヒントを得ていただきたいと思います。
(取材・文/牧内昇平)