三大天下人でトップは?

徳川家康(左)と織田信長

 12世紀末、一種の独立国ともいえる鎌倉幕府を開き、征夷大将軍として君臨した源頼朝。その後700年にも及ぶ「武士の世」を打ち立てたカリスマ・頼朝の年収はいかほどだったのだろうか?

 確たる資料はないのだが、多くて1億5000万円程度と考えられる。朝廷相手に大きな顔をしてみせた頼朝だが、その年収のうち1億3千万円ほどは彼に与えられた朝廷の官位「正二位(しょうにい)」に由来する。当時は朝廷の官位を持っているだけで、高収入を得ることができた。将軍としての収入は、彼の所有する荘園などの儲(もう)けが中心で、これは1000万~2000万円程度にとどまると見られる。

 戦国時代の3人の天下人たちの収入にも迫ろう。換算が実に複雑なので、今回は大名が支配する直轄領を中心に考えてみる。直轄領の収入=農民からの年貢米だが、当時のルールでは大名個人の懐に入るのは、その6分の1だった。

 まずは織田信長。その直轄領には諸説がある。信長研究者の谷口克広氏によると(近親の分も含めて)150万石ほど。実質100万石程度だったという説もあり、17万~24万石くらいが彼の取り分。1万石=15億円で計算すると、年貢米だけで105億~306億円も信長は稼いでいたことになる。その後、家臣に分配するとはいえ、額が大きい。しかも、信長が自身の直轄領にした土地には金山・銀山が存在した。莫大な金塊、財宝が信長の城・安土城の地下に眠っていたという話にも真実味がある。

 一方、豊臣秀吉の直轄領は220万石とされ、年貢米のうち秀吉の取り分は37万石=555億円。信長と同じく金山・銀山を有する土地を直轄領に選んだこともわかる。武士なら領地の広さと年貢米の量を最重要視すると思いきや、信長・秀吉は“コメより黄金”だった。戦の勝敗には資金力が関わるから、戦が強い人は経済にも強い。

 そして続く徳川家康だが、彼は直轄領も400万石とほかの2人よりもかなり広い。どんな重臣にも領地を気前よく分け与えなかったという逸話は真実のようだ。直轄領の年貢米からの家康の取り分は67万石=1005億円。さらに有名金山・銀山もすべて手の内に入れているという強欲ぶり。さすがは日本史最大の資産家といわれるだけある。

 なお、数々の時代劇や、漫画『バガボンド』などの作品でも知られる剣豪にして芸術家でもあった宮本武蔵は晩年、熊本藩のお抱えになり、藩主・細川忠利の剣術指南役を任せられた。その際に与えられた報酬が330石=4950万円。芸は身を助けるとはよく言ったものだ。

リッチといえば皇族

 明治時代から第2次世界大戦前の日本で、もっともリッチだったのは皇室とその関係者だろう。明治初期の1円=5000円、明治中期以降の1円=1万円というレートを採用すると、明治の世で最初に妃殿下になった梨本宮伊都子さまは、旧・鍋島藩主のご息女。日本でも10本の指に入る資産家のご令嬢ゆえに、結婚式で頭部を飾るティアラにも、当時のお金で2万数千円が注ぎ込まれたという(現在の1億数千万円に相当。当時の総理大臣の年俸の2倍程度)

 現代日本の4人家族の平均生活費は月33万円(2019年、総務省統計局)だそうだが、明治末の4人家族の「中流家庭」でも月30~40円(30万~40万円)という時代、例の梨本宮家には毎年4万5000円(4億5000万円)の皇族費が与えられ、それが生活費だった。戦前の皇族たちは、庶民の目には驚きの豊かな暮らしを叶(かな)えていたのだ。

 明治天皇・皇后両陛下に仕える女官も高給取りで、現在の貨幣価値で1200万円以上の年収があった。また、女性皇族たちも通う女子学習院の院長だったころの女性教育者・下田歌子の年収は2400円=現在の数億円以上。皇室周辺の仕事は世間の最高水準の給与体系で、働く女性たちの憧れだった。

 秋篠宮家の眞子さまのご成婚でも話題になった“一時金”も、昔のほうが高水準だった。「皇室経済法」によれば、一時金とは皇族だった方がその身分を離れ、一般人になってからも品位を保ち続けるために与えられるお金である。それゆえ、一時金が支払われたのは皇女の結婚時だけでなく、多くの皇族がその身分を失い、旧皇族と呼ばれるようになった終戦後も、国庫から多額のお金が支給された。

 コロナ給付金と仕組みが似ており、家族が多いほどお得だったようだ。旧皇族の中で最大給付を受けられたのは7人家族だった東久邇(宮)家。おひとり当たり675万円(現在の1億8321万円)が非課税で支給された。つまり、この年の東久邇家の世帯収入は現在の貨幣価値で13億円弱あったことになる。