アイドル全盛期の1980年代。なかでも特に豊作といわれているのが“花の82年組”。そのひとり、早見優さんはこの夏、デビュー40周年を機に所属事務所からの独立を発表し、記念アルバム『Affection ~YU HAYAMI 40thAnniversary Collection~』を10月12日にリリース予定だ。
チャーミングな健康美が変わらず魅力的。この節目に歌手としての歩みと2人のお嬢さんの子育てを振り返り、再ブレイク中の80年代アイドルについても語ってもらった。
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実は就活も考えていた10代のころ
──最初にアイドル時代の話を。‘82年のデビュー曲『急いで!初恋』や『夏色のナンシー』(’83年)のアイドルソングが続いた後、’85年の『PASSION」、‘87年の『ハートは戻らない』は楽曲の雰囲気がロック調やユーロビート調に。早見さんの意思によるものでしょうか。
「楽曲がロック調にシフトしたのは、アン・ルイスさんとの大切なご縁からですね。アンさんとは、雑誌の対談で私を指名してくださったのが最初の出会い。マネージャーから “大先輩で怖いからね”とクギを指されて“初めまして早見優です。よろしくお願いします”と緊張しながら挨拶したんです。ところが “やめてくれる? これからはフレンドリーでいくよ”って言われたんですよね」
──バイリンガルがまだ珍しかったころ。アンさんも英語で話せる相手が見つかって嬉しかったんでしょうね。
「2人で英語で話すと楽しくて。その後に引っ越した先が偶然、アンさんの家からすぐ近くでした。ごはんを作って持って行ったり、肉じゃがの作り方を教えてもらったり、ご近所付き合いが始まったんです。
あるときアンさんが “どんな歌を歌いたいの?” って聞いてくれたので、もう少しリズムのあるダンサブルな曲を歌いたいと相談したんです。私はアンさんの『女tonight』が大好きで、カバーさせてもらったのが『Tonight』(’85年)なんです」
──髪をショートにして、イメージもキュートな感じからクールになって印象的でした。
「そうですね。『STAND UP』『PASSION』『CLASH』とリズム感のある音楽に変わって、イメージも曲に合わせて変えてだんだん定着していったんですよね」
アイドル時代、キラキラと光りながら個性や才能を開花させていった。同世代たちは、結婚して家庭に入ったり、俳優業にシフトしたり、または歌手としてさらに輝いていったり。それぞれが次のステージに入っていった。転機を迎えながら、早見さんの気持ちはどのように変化していったのか。
──アイドルから大人の女性に変わっていくなか、仕事と結婚、その後の人生についてどんな風に描いていましたか。
「全然そんなこと考えてなかったですよ(笑)。15歳でデビューして19歳まで、あまりに忙しくて、まるでビデオテープの早送りのような記憶です。ただ19歳のときに、このままアイドルとしては続けていけないんじゃないか、将来は就職活動するかもしれないって思ったんですね。それで学校に戻って勉強し直そうと、1年浪人して大学に進学しました」
──大学では新しい友人ができたり生活のリズムが変わったり、ライフスタイルがずいぶん変化したのでは。
「大学に行っていい意味でリセットすることができました。3年生のとき、周りの友達は就職活動ですよね。“優ちゃんはいいよね、もう仕事があるんだから”って言われて、ああそうか、私の仕事は生涯続けられるんだって、あらためて自分の仕事と向き合うことができたんですね。
でもちょうどその時期が転機で、マネージャーから、今後は歌だけではサバイバルできないから大人の路線を考えるように言われて。その意味がわからず、興味が持てる仕事ができればいいなって思っていたら、ミュージカルの話をいただいたんです。大好きな歌と、新しい分野のお芝居に挑戦できるのが嬉しかったですね。それで『グリース』(‘88年)に出演しました。その翌年から『オズの魔法使い』が新宿コマ劇場でスタートして6年間、ドロシー役を演じました」