“逃げた”先で見つけた自分だけの強み
篠原さんが“逃げた”先は、文藝春秋でした。文藝春秋は、創業者の菊池寛が直木賞と芥川賞を創設した、文芸出版の横綱ともいえる出版社。篠原さんはここで、文芸編集者としてきちんと仕事に向き合ってみたいと考えました。
「いざ文藝春秋に入ってみたら、皆さんすごく優秀で、穏やかな会社でした。でも、“その居心地のよさに甘んじていたら、移籍した意味がない”と思いました。それなら“文藝春秋の編集者がやっていないことをやろう”と思ったんです」
ちょうどそのころ、RADWINPSの野田洋次郎さんから「日記書いてみたんだけど、読んでみてくれない?」と渡されたという篠原さん。それが野田さんの初エッセイ『ラリルレ論』へとつながりました。この本のヒットを皮切りに、その後の活躍は冒頭にも記したとおりで、ミュージシャンの言葉の才能を見抜いて小説を依頼するなど、仕事の幅をどんどん広げていきました。
「とはいえ、“有名なミュージシャンに声をかければいい”というものではありません。天の邪鬼なところがあって、少しこじらせているくらいの人の方が文章を書くのに向いているんじゃないかと思います。僕は横でサジェスチョン(助言)を与えることはできても、書くのは本人。野田さんはもちろん、尾崎世界観さんも、藤崎彩織さんもすごい才能の持ち主でしたから」
文藝春秋で数々の本を手がけ、着実に実績を積み重ねていった篠原さんですが、自分の好きな本だけをワガママに作っていきたい、という思いが次第に募るようになります。
「文藝春秋が嫌になったわけじゃなくて、むしろ今でも大好きな会社。でも、会社にいる限り異動はつきものです。自分で決められる権限はほしかったけど、現場から離れた管理職にはなりたくない。自分にとっては“会社に残る方がリスクなんじゃないか”と思うようになったんです」
こうして、「自分で出版社をやろう」という考えが頭に浮かぶようになりました。とはいえ、編集畑一本で来た篠原さんにとって、取次(※3)との交渉や販売、営業などは専門外で、自分でやるのは難しい。そこで思い至ったのは、篠原さんが独立して出版社を作り、文藝春秋にパートナーになってもらうということでした。
※3:出版社と書店の間をつなぐ卸売業者
「まずは直属の上司に相談して、話を上層部に上げていただきました。当時の営業局長だった方が、“流通代行をビジネスとしてやっていくべき”という考えを持ってくださっていたこともあり、話し合いは比較的スムーズだったと思います。水鈴社が刊行した作品を文庫化するときには、著者の許諾を得て文春文庫にファーストルック権(※4)をお渡しするなど、文藝春秋とウィンウィンな関係になることを意識しています」
※4:企画段階から優先的に見ることができる契約