これまでの道のりは「挫折だらけ」、舞台『メリー・ポピンズ』で新たな岐路に

──お母様が宝塚出身で、幼少のころから舞台を見て育ち、子役の時代から活躍していらっしゃいますが、ご自身も舞台に立ちたいと思ったきっかけは何かありますか?

ディズニーのショーが好きで、“自分もあんなふうに人を感動させることができたら”と舞台に興味を持ったんです。将来もプロの役者になるつもりで、小さいころからオーディションを受けていました。13歳から5年間、ミュージカル『ピーターパン』で主演して、舞台には小さいころから出ていたのですが、やはり、母の通ってきた道でもある宝塚に入りたくて、受験スクールに通って準備をしていました。ちょうど宝塚を受ける時期に、『レ・ミゼラブル』のオーディションがあって、エポニーヌ役に合格したんです。そこで、とても迷ったのですが、“エポニーヌという誰もが憧れる大役を射止めたのだから”と宝塚受験は諦めることにしました

──子役時代から日本のミュージカル界をけん引してきた俳優さんとして、王道を歩んでこられましたね。

振り返ると、なかなか望んでも叶(かな)わないような道を歩んできていて、自分でも感慨深いですね。自分が演じてみたいと願う役をすべていただいてきました。運が強かったのかもしれません。

 一方では、大きな作品の重要な役が舞い込んできて、共演する方は実力のある役者さんばかりということも。自分の実力が作品に追いつかないのに、まわりの期待に押しつぶされそうになったことも多々ありました。歩んできた道は華やかに見えるかもしれないのですが、自分としては、ずっと苦しんでばかりいました

──挫折を知らない役者さんのように見えますが、やはり厳しい世界なのですね。 

「挫折だらけです。中でもつらかったのが『ベガーズ・オペラ』というミュージカル作品で、ジョン・ケアードさんが演出、内野聖陽さんの主演で、ほかの共演者の方々もそうそうたるメンバーが集まっていました。オーディションに受かってキャスティングされたのはうれしかったのですが、いざ稽古に入ってみると、“自分だけ素人が混じっている”という感覚になるほど何もできなかったんですよね演出家が求めていることが高度すぎて、到達できない。そこそこキャリアを築いてきた、と思い上がっていたんでしょうね。まだまだだな、と実力不足を痛感しました。

 演出家も出演者も、みなさん実力者ばかりで、演劇的な理解や技術的な面でどうしても劣ってしまう。自分のテリトリーは歌やダンスでしたから、芝居の難しさを改めて認識させられた苦しい舞台でしたね。乗り越えることができないまま、厳しい公演になってしまったのが心底悔しかったのですが、再演があったことで、“前回の課題を少しは克服できたのではないか、これからも成長していかなくては”と、さらに意欲的になることもできました

──13歳という最年少でピーターパンの主演をされて以来、5年も続けてこられた役で、思い入れも強いことと思いますが、自分にとってどういう作品だととらえていますか。

「そのときは怖いもの知らずで、無敵だったんですね。子どもって、実は精神的に強いところがあるんです。失敗を知らないから、どこまでも突き進んでいける。年をへるごとに、毎回、舞台の怖さを知っていきました。今となっては、永遠の少年ですから、そのときにしかできない貴重な経験ができて幸いでした。子役として継続的に舞台出演をしていましたが、仕事と学校との両立も家族がうまくサポートしてくれましたし、何に対しても怖いものがなかった時代でした

──転機となったのは、なんといってもピーターパンとエポニーヌ役だと思いますが、キャリアを積んできた今、新たな岐路になった作品は何かありますか。

'22年の舞台『メリー・ポピンズ』ですね。ずっとやりたかった憧れの役でした。オーディションに一度落ちているので、これほどうれしかった合格もありませんでしたが、実際に始まってみると、普段の役以上に覚えなければいけないことがたくさんあって、何度も挫折しそうになりました。まず、メリー・ポピンズという存在自体の解釈が難しい。“メリー・ポピンズは人間ではなくて、この世に存在しない何者か、宇宙人みたいな感覚で”という演出家が求めていることが理解できなくて。立ち姿だけでも難しいんです。どうやって歩いたらいいのか、手の動きひとつとっても人間ばなれしていなければならない。憧れの役だっただけに、思い入れが強く、役作りにはそうとう苦戦しました。いったん幕が開いてからは、毎日楽しくて楽しくて、終わるのが寂しかったです。ずっとメリー・ポピンズでいたいなと思うほど。そういう役は初めてでした