BOOWYの影響を隠さなければならなかった90年代

──私が初めて氣志團を観たのが、オナニーマシーン(注:音楽ライターのイノマーがボーカルを務めた伝説のパンクバンド)主催の『ティッシュタイム』(2000年・Planet K)というイベントだったのですが、いくつかバンドが出演した中で、まだデビュー前だった氣志團の存在はすごく覚えています。

「オナニーマシーンや、QP-CRAZY(注:過激なパフォーマンスで知られたバンド)が出ていた面白いイベントだったよね。当時、銀座7丁目劇場という吉本興業の劇場にまちゃまちゃという同級生の芸人が出ていて、そのつながりで、ダイノジから“今度、ライブで僕たちのバックバンドやってくれないか?”って誘われたんです」

──メンバーの反応はどうでしたか?

「僕は既にダイノジの大ファンだったのだけど、うちのメンバーは知らなかったんですよね。それを突然、“彼らのバックでBOOWYの曲を5曲演奏してくれないか?”って聞いたものだから、単純に困惑していましたね。嫌悪感ではなくて、“なんで俺たち?”、“しかもなんでBOOWY?”っていうリアクションでしたね

──今の氣志團のヤンクロックのイメージからは想像ができないですが。

まず、90年代半ばから後半にかけて、『BOOWY』っていう言葉は、バンドマン界隈ではある意味禁句だったんですよ。今では信じられないことですが、彼らに影響を受けているなんてことを言ったらいけない時代が確かにあったんですよね。バンドブームが終わって、80年代〜90年代初頭の日本の音楽文化がトラウマ的に捉えられている時代で。その象徴たる位置に君臨していたのがBOOWYだったからでしょうね。ある種の踏み絵的な存在になってしまったんです。当時はうちのメンバーたちですら、触れたら火傷すると思っていたんじゃないかな。

 ただ、あの日改めてカバーした時にBOOWYの楽曲のすごさ、プレイヤーとしてのすごさを再確認したんです。時代の流行や風潮に流されちゃいけない、他人の感覚に委ねちゃいけない、と心に固く誓った瞬間でもありました

綾小路 翔さん 撮影/山田智絵

──翔さんは、好きなものがブレていないですよね。

僕はミーハーなので、その都度いろいろなものに興味を持つのですが、過去に好きだったものを隠したり、ガチ勢じゃないことを恥じたりする感覚が人より足りないのかも。好きが増えれば増えるほど、人生が豊かになったから。だから前の彼氏を悪く言う女の子とはうまくいかないかも(笑)。

 前述したように、ライブハウス界隈では、バンドブームの話をするのも恥ずかしいという雰囲気があったんです。90年代半ばから後半にかけては、触れちゃいけないムードだった。本当はみんな影響を受けているのに、その感じは出しちゃいけないっていう。僕らの世代は、一気にミクスチャー系や、メロコア系のバンドになりましたから。日本の音楽の影響を受けていないことをアピールするために、カウンターカルチャー的に洋楽志向の音楽が生まれてきた時代なのかな。ビートパンクっぽいものや、日本語で甘いメロディーを歌うのはヴィジュアル系だけに任せようっていう時代になったんですよね。このへんは完全に僕の主観ですけど。そんな中、自分は堂々と好きなものは好きと叫び続けて来たかなと思います

──確かに、当時を振り返るとそういう風潮がありましたよね。

「僕らも長く生きてきて、ブームっていうものは絶対に終わるっていうのもわかったし、終わったものはしばらく触れちゃいけないみたいな雰囲気になってしまう。でもケミカルウォッシュみたいに、二度とあり得ないと思われたものがまた流行(はや)ったりもする。だから俺たちはこれからも『ヤンクロック』という旗を掲げ続けるんです。今、強引に話をまとめようとしている事は自覚しています(笑)