恋多き20代、大連から上海へ
ところが、新婚の夫はほどなくして急死。妙子は人気の女性奇術師・松旭斎天勝一座のステージに出演したり、ダンスを習う日々。しかし、このころ河上鈴子というプロの女性舞踏家に師事してスパニッシュダンスを踊っていたことが、上海で異国人たちの視線を惹きつける下地になる。
「上海を魅了したマヌエラのダンスはフロアダンスで、レビューのように舞台上で見せるものとは違います。フロアで踊るスパニッシュダンスを会得したことで、エキゾチックなダンサーとして開花する土台になったのかもしれません」(昭和芸能史が専門の作家・小針侑起さん)
妙子自身も、日本人に見られないこともあった自身の容貌には情熱的なスパニッシュが合っていたかもしれないと述懐している。おかげで得意な楽曲は社交ダンスの定番曲のひとつ『エスパーニャ・カーニ』だった。
20代にして異性関係も苦労が多かった。出入りしていたクラブで知り合ったジャズ歌手のリキー宮川と事実婚の状態に。しかし宮川の女性関係が原因ですぐに夫婦仲は疎遠に。天勝一座の舞台や踊りの仕事で糊口をしのいでいた’37年、破綻した夫婦関係から外国人の男と大連に駆け落ち、そこで「姦通罪」の容疑で官憲に拘束される(当時、妻が不貞を働いたときにのみ成立する刑法罪が存在した)。
なんとか疑いは晴れたものの、日本に帰りづらくなった妙子は上海へ。米英仏の列強が租界を構えていた上海は、大連よりも華やかで東洋一流のミュージシャンや踊り子たちがそろっていた。
旅費や衣装代を前借りし、その日暮らしの生活を送る──給料の前払いを意味する「advance」から転じて「バンス」と自称した芸人やバンドマン、ダンサーたち。後年、斎藤憐の戯曲『上海バンスキング』で描かれた上海の芸能界に妙子も飛び込んだ。
世は盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争が勃発した年である。初めは「沖マヤ」の芸名で踊っていた妙子だが、ハロルド・ミルズという米国人との出会いから「マヌエラ」が生まれる。