日本のマタ・ハリ? 2つの国からかけられたスパイ容疑
ミルズの表向きの仕事はジャーナリストだが、実質的な妙子のマネージャーでもあった。舞台ではパックンさんが演じている、ムーラン・ルージュの元ダンサーのパスコラをダンス教師として紹介したのもミルズだったが、彼が用意したのが、
《ハワイ・ホノルルに生まれ、10歳で初舞台を踏む。その後、インドのボンベイ(編集部注・現在のムンバイ)のオリエンタルダンサー・ランボヤに師事し、妖艶なダンスで喝采を浴びた唯一無二のダンサー、ミス・マヌエラ》
という架空のプロフィール。芸名のマヌエラもダンスの楽曲『マヌエラ・デル・リオ』からの引用。この経歴をひっさげ、官能的なスパニッシュダンスでフランス租界に住み、欧米人も魅了する。十八番の楽曲のひとつ『ペルシアンマーケット』を踊るマヌエラの写真が上海市内・南京路の朝鮮銀行に掲げられ、どのクラブでもマヌエラが訪れただけでバンドは『ペルシアンマーケット』を演奏したという伝説も生まれた。
わざと日本人であることを隠し、国籍不明のダンサーとして売り出す。出自を偽るのは山口淑子(中国人「李香蘭」として女優デビュー)の例を見ても当時珍しいことではなく、戦時中でもジャズが流行し、列強と中国の富が集まった多国籍都市・上海ではむしろそのほうが彼女の魅力を引き立てた。
エキゾチックなダンサーとしてのマヌエラ像は多分に西洋から東洋への人種的偏見も混じったものであったが、妙子本人が培ってきたダンスと人生があってこそ、後世になっても伝説的な生涯として記録されたのだろう。
マヌエラの評判に、米国・ユニバーサル映画の重役から上海で直々にスカウトされ、いったんは渡米を決めて船の手配までしたところに、1941年12月8日、日米が太平洋戦争に突入。ハリウッドスターへの道は幻と消えた。
ところが、日米開戦の余波で憲兵隊にスパイ容疑をかけられる。後年に雑誌『BRUTUS』(1982年9月号)の取材に応じた際、当時のことをこう回想している。
「戦争が始まって2週間くらいしたら、ある日憲兵が来てね、憲兵隊に引っ張られたの。私がスパイだと思ったのね。で、その取り調べがもうすごくって、私、殺されちゃうと思ったから、勘当の身だったけど、父のことを言ったのよ。杉山大将(太平洋戦争開戦時の参謀総長・杉山元)が父の兄さんの無二の親友だったの。そうしたら運よく杉山さんがいらして、“とんでもない、山田さんのお嬢さんだぞ”っていうことになって、すぐに出されたの」
米国人のミルズがマネージャーだったことも心証を悪くし疑いをかけられたが、陸軍の大物・杉山元と父親の縁で難を逃れたという出来事だった。
1943年、踊るマヌエラの前に現れたのが和田忠七という日本人で、彼女の3人目の夫になる。舞台『マヌエラ』では渡辺大さんが演じる海軍中尉という設定のこの人物、表向きは実業家であるが、妙子によれば最初は陸軍の軍服を着てやってきたという、軍との非公式なコネクションも持った人物で既婚者であった。この和田が粘り強くマヌエラのもとに詣で続け、敗戦・帰国ののちも彼女のパートナーとなって正式に夫婦になった。
’45年8月、日本がポツダム宣言を受諾。すると今度は連合国から日本のスパイ容疑をかけられたという。
「アメリカに引っ張られたのよ、そのときに私を調べた人は、私をてっきり“日本のマタ・ハリ(※)”だと思ったの。投書がずいぶん行ったんですって。女王様みたいな暮らしをしてお金が有り余っているって。私アタマに来てね。戦争が始まればアメリカのスパイだろって憲兵隊に言われ、すんだら今度は日本のスパイだなんて。あんたたちいったい何してんのって言ってやったの」(『BRUTUS』1982年9月1日号)
※パリの有名キャバレー「ムーラン・ルージュ」の人気ダンサー。第一次世界大戦中にスパイ容疑でフランス軍に捕えられ処刑された。