小説に、舞台に。数奇な人生が平和な時代に脚光を
罪の疑いが晴れて1946年に和田とともに帰国した妙子は、’47年に早くも銀座で喫茶店「モレナ」を開業。’52年からは内幸町でナイトクラブ「マヌエラ」を経営し、現役のダンサーとしてフロアでも踊った。
まだ日本が敗戦の痛手から癒えない時代ながら、クラブ「マヌエラ」は文化人や芸能人の社交場に。開業イベントの司会を務めたのはE・H・エリック。故・岡田眞澄さんの兄で、弟とともに司会や俳優で活躍した人物だ。
「マヌエラ」のステージにはコメディアンのトニー谷も立ち、クラブは生演奏のバンドを抱えてジャズマンを輩出。戦後を代表するジャズバンドの『ブルーコーツ』もここで演奏し、三島由紀夫、犬養健ら文化人たちの隠れた遊び場になっていた。
数奇な妙子の人生にスポットが当たり始めるのは、日本が安定して豊かな時代を迎えてから。作家の西木正明さんが戦時中のマヌエラと和田をモデルに書き上げた小説『ルーズベルトの刺客』(1991年)が生まれ、‘99年1月には天海祐希さんの主演で舞台『マヌエラ』が上演。
戦時中の上海を知る生き証人として、平成以降もメディアに登場していた。2001年には90歳目前にして『上海ラプソディー -伝説の舞姫マヌエラ自伝-』を出版、’02年には『徹子の部屋』にも出演する。自身と同じく芸能界を生き抜いてきた黒柳徹子さんと上海での思い出や、晩年になって日本舞踊を習い始めたという矍鑠(かくしゃく)ぶりで話に花を咲かせていた。
‘07年9月18日、95歳で永眠。夫の和田忠七とともに多磨霊園に眠っている。最晩年は雑誌『編集会議』(2001年8月号)のインタビューで人生を振り返ってこう答えていた。
「私は『I try my best』で生きてきましたからね。お天気は、いつまでも雨が続くわけじゃない。一番どん底にいても、太陽が燦々と照るときがくる。それが私の信条です。踊っていれば、必ず救われてきました。後悔することがない、本当に幸せな人生でしたね」
異国でダンサーとして身を立てて戦争を生き抜き、晩年もポジティブに後悔しない人生を送った。生涯を通じて放たれた強いエネルギーは、現代日本人にとっても鮮烈に映っている。
(取材・文/大宮高史)