カオナシの正体

 欲といえば、黒い半透明の身体にお面をつけた異様な生き物・カオナシにも言及したい。彼は自我を持たず、他の存在を体内に取り込むことによって喋(しゃべ)ったり意思表示をすることができる。彼は中盤で千尋に優しくされてから彼女に執着するようになり、千尋の欲しいものはなんでも出す、といった姿勢を見せる。しかし千尋はそれに応じないのだった。

「欲しくない、いらない」

 カオナシの正体とはいったい何なのか? おそらくは、人間なら誰しもが持つ”相手に受け入れられたいと思う欲求”すなわち”承認欲求”ではないかと考えられる

 求めれば求めるほど膨張していくそれは次第に大きくなっていき凶暴化し、コントロールできなくなるカオナシの状態と似ている。自我があいまいな存在というのは、他者に認められることで安心を得ようとする。

狂暴化したカオナシが千尋に迫るシーン

 カオナシはもしかすると本作の中で最も人間に近い存在であり、人間の心にあり続ける闇を具体化した存在なのかもしれない。彼は終盤、湯婆婆の双子の姉である銭婆の家に千尋と赴(おもむ)き、そこで初めて居場所を見つける。尽きない欲に翻弄(ほんろう)され、自我を求めて当てもなく放浪するさまは日本人の根底にある仏教観すら感じさせ、作品に深みをもたらすワンセンテンスを与えている

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『千と千尋の神隠し』はさまざまな視点から宮崎駿監督作品に通底する思想に考えをめぐらせることができると同時に、”目に見えない”ものに対しての華やかでありながら侘び寂びまでも感じられる描写を通して、瞑想(めいそう)に似た深い思考へと誘われる作品だ。

 映画を鑑賞し終わったあとの吹き抜けるような余韻は、現代人に対し禅問答に似た究極の問いを投げかけ、やがて苦しみからの解放をもたらす。本作はそんな人々の心に訴えかける力を不動のものとしながら、映画に登場する6番目の駅で留まり続ける乗客のように、永久に名作として映画史に残り続けるだろう。

(文・安藤エヌ/編集・FM中西)