熊本県の尚絅大学・尚絅大学短期大学では県と協定を結び、くまモンがデビューして10年たった2020年から、全国で唯一の「くまモン学」という新たな学問を立ち上げた。くまモンのそれまでの活躍・成果について調査・研究を行い、新たな展開に生かしたいとする熊本県と、地元に根ざしたテーマに基づく教育・研究を通じて地元・熊本に貢献したいと考える大学の思いが合致して設定された学問だ。
(くまモン学については昨年9月の記事で詳しく紹介しています→「くまモン学」を知っていますか? “くまモンが10〜20代女性から人気を得る方法”を大学生が本気で考えてみたら)
'23年2月18日、立ち上げから3年たって、くまモン学の研究報告と、くまモンのこれからについてのフォーラムが尚絅アリーナでおこなわれた。
地域ブランドに大きく寄与してきたくまモン、あらゆる資料が残されていけば──
開会挨拶は、くまモンの上司で育ての親でもある蒲島郁夫・熊本県知事。くまモンがいかに熊本県民に愛されてきたか、そして、くまモンが作り出す「共有空間」は、あらゆる人に幸せと笑顔をもたらすと力強いメッセージを送った。くまモンも知事の隣で頷いたり驚いたりと豊かなリアクションを見せた。
その後は、くまモン学の研究報告。
「地域ブランドとくまモンの関係」は、横浜国立大学大学院・国際社会科学研究院准教授の君島美葵子氏と熊本県立大学・総合管理学部教授の望月信幸氏の共同発表。'15年からくまモンと地域ブランドの研究をしてきたという君島氏は、くまモンがどれだけ熊本県の地域ブランドに寄与してきたかを詳細に説明した。また、望月氏は熊本地震に際して、くまモンはいかに熊本県にとってなくてはならない存在になったか、「財務」「顧客」「内部プロセス」「学習と成長」という4つの視点から、くまモンがどうやって“品格ある観光地くまもと”を形成してきたかに言及した。
研究報告2は、「くまモンアーカイブの構築に向けて」。尚絅大学現代文化学部教授の桑原芳哉氏が、くまモンに関するさまざまな資料の収集と保存を目指していると話した。当面の作業としては、印刷資料(書籍、新聞記事、雑誌記事)のリスト作成、資料収集に取り組んでいるとのこと。こうやってくまモンについてのあらゆる資料が集められ、保存されていけば、くまモンがデビュー100年を迎えたころにはとんでもない情報量になっていることだろう。そのころのくまモンは、どんな活躍をしているのだろうか。
くまモンには「内面」がない? 興味深い考察について筆者らファンが思うこと
続いて研究報告3として、「キャラクターの理論におけるくまモンの位置づけ」が、尚絅大学現代文化学部准教授の三浦知志氏によって語られた。これは非常に興味深い考察だった。小田切博氏『キャラクターとは何か』(ちくま新書)によれば、キャラクターの構成要素は、図像、意味、内面だという。そして、これらは放っておけば、時の流れとともにすぐ変化してしまうものであるとも言っている。キャラクターのありようとしては、変化に身を任せるのか、変化に抗うのかの二者択一がある。結論から言うと、くまモンは抗っているのではないか、と三浦氏は言う。
くまモンの図像は、デフォルメされないよう、けっこう厳しく管理されている。一般にキャラクターは物語を与えられて内面を作り上げるのだが、くまモンには「物語」がほぼない。ということは内面を与えられていないから、確固たる人間的リアリティは生まれない。
三浦氏は、“くまモンは「写し鏡」である”と、小山薫堂さんの意見を引用した。写し鏡であるから、見る人それぞれの心の中に、「自分なりのくまモン」が生まれているのだ、と。
「だけど、くまモンには人間的リアリティはある。だから、内面は生まれないけれど人間的リアリティはあるという、キャラクター理論が通用しない存在」
三浦氏は、そうまとめた。
一面では、「それもあり得る」と感じる。私たちがくまモンには表情があると思うのは、能面と同じように角度によって表情が変わること、そして見る人の気持ちが投影されることに起因しているからなのだろう。私たちがおもしろいと思って見れば、くまモンも楽しそうに見えるというわけだ。だが、ここで長年のファンたちの頭には、おそらく「?」が浮かんだと思う。
くまモンはしゃべらないし、まばたきをするわけでもない。それでも誰とでもコミュニケーションがとれる。コミュニケーションがとれるということは「内面」があるということだ。笑うし怒るし、感情表現は人間より豊かかもしれない。ときに人間より人間臭い感情をむき出しにすることもある。図像=イラストだけを見れば、それほど感情を表現しているようには見えないかもしれないが、それはイラストだからだ。ファンはそこに、自分が見てきたナマのくまモンを重ね合わせる。焦ったときのくまモン、照れたときのくまモン、そして誰かを力強く励ますときのくまモン……。これほど内面が充実した生物がほかにいるだろうかと思いながら、私たちは彼を見てきた。
確かに家族がいるのかいないのか、プライベートはどうやって生活しているのか、そうした「物語」はくまモンにはない。だが、くまモンはくまモンという存在として、心に太い軸をもっている。それを内面とは言わないのだろうか。もしかしたら筆者が「内面」という言葉の意味合いにおいて、三浦氏の説を理解していないのかもしれない。このキャラクター理論におけるくまモンの位置づけは、ぜひもっと詳しく聞いてみたい。