アントニオ猪木さんや、武藤敬司さんなど名レスラーの試合には、必ず名レフェリーの姿があります。リング上のルールブックとして存在するレフェリーですが、彼らはどのようにしてこの職業に就いたのでしょうか。そして意外に知られていない仕事内容とは?
今回は、人気プロレス団体『DDTプロレスリング』所属のレフェリー・木曽大介さんに、レフェリーになった経緯をお聞きしました。
レフェリーになるためにプロレス団体に入社したのに、カレー屋に!?
──レフェリーになって何年目ですか?
「DDTプロレスリング(以下、DDT)に入社して15年目で、レフェリーとしては13年目です」
──DDTに入社された当時(2008年)は、団体はどのような状況でしたか?
「2009年にDDTが初めて両国国技館で興行を行ったんです。僕が2010年にレフェリーデビューして、'11年とか'12年には、チケットが取りにくい状況になっていました。HARASHIMA(DDT所属)さんと飯伏(飯伏幸太。元DDT、元新日本プロレス)さんとケニー(ケニー・オメガ。元DDT、元新日本プロレス、AEW所属)がいて、本当に団体が大きくなっていった時期でしたね」
──レフェリーになる前は、何をしていましたか?
「栄養士をしていました。スポーツ選手の栄養指導や、スポーツトレーナーの専門学校で栄養学の講師をしていました。『Tarzan』(マガジンハウス刊)に記事を書いたりもしましたね。その後、いろいろあって栄養士の仕事を辞めて無職だった時期に、ボストン・レッドソックスに所属していた岡島(秀樹)選手が、巨人戦で東京ドームに登板したんです。その姿を見て、スポーツを含めたエンタメ業界のすごさに感動しました」
──栄養士を辞めて、どうしてレフェリーになろうと思ったのですか?
「仕事を辞めたときは30歳だったのですが、“生活のために仕事をしなきゃならないのか……”ってマイナス思考になっていた。そんなときに、たまたま澤宗紀(元プロレスラー。国内外の団体に参戦し活躍した)と、タノムサク鳥羽さん(フリーのプロレスラー。手にグローブをはめたスタイルでの試合が特徴)のシングルマッチがDDTの後楽園ホール大会で行われたんです。もともとふたりと知り合いだったので試合を観に行って。そうしたら、高木さん(高木三四郎。DDTプロレスリング代表取締役社長)の入場がすごくカッコよかったんですよ」
──高木社長の決めポーズは象徴的ですよね。(高木社長のインタビュー記事はこちら)
「そうなんです。決めのポーズで観客と一体化するじゃないですか。岡島選手の登板のときに東京ドーム中にフラッシュが焚(た)かれた瞬間と、高木さんの入場が重なって、すごく胸に響いた。そこで“最後にもう1回だけ、やりたいことに挑戦してみよう”って決意したんです。鳥羽さんに“DDTに入りたい”と連絡をして、面接してもらったのがきっかけです」
──レスラーになりたいとは思わなかったのですか?
「子どものころは漠然と夢見たこともありましたけど、大人になってからはレスラーになりたいとは思わなかったですね。DDTの試合に、松井さん(松井幸則。DDTのレフェリー)と和田京平さん(全日本プロレスの名誉レフェリー。愛称は京平)が出ていたんですよ。レフェリングの塩梅(あんばい)によって会場が盛り上がる。こんなにもお客さんの心を動かすんだって感動しました。僕はサンボ(ロシアの格闘技)の審判員の免許を持っていたこともあって、自分もやってみたいって思った。鳥羽さんは“紹介はするけれど知らないよ”みたいな(笑)。高木さんもどこの馬の骨かわからないやつよりは、知り合いがいいって思って入れてくれたんだと思う」
──入社してからレフェリーになるまでは、順調でしたか?
「いえ。入社当初は“松井さんと、もうひとりレフェリーがいるから空きがない”って言われたんです。ちょうどそのころ、DDTがカレー屋をオープンすることになって、僕は栄養士の資格を持っていたので、カレー屋を手伝うことになった。プロレス団体に潜り込めば、いつかチャンスが来るだろうと思って1年半くらい働いていたんです」
──レフェリーのつもりが、カレー屋さんになったのですね。
「ところが、あるとき『週刊プロレス』(ベースボール・マガジン社)でDDTがレフェリーを募集していたんです。これは何かのネタかなって思ったのですが……(苦笑)。周りから“レフェリーをやりたいってことを忘れられてますよ”って言われたんですよね。それで、高木さんに確かめたら“もっと早く言えよ!”って怒られちゃって。最初に言っていたんですけどね(笑)」