カルチャーを愛する人なら知らない人はいない、日本を代表するカルチャーメディア『CINRA.NET(シンラネット)』。
国内外の音楽をはじめとした芸術の最前線を、独自の視点を持ったインタビューや考察で掘り下げていく記事のクオリティに定評があり、一般のオーディエンスのみならず業界内にもファンの多い媒体だ。
2003年に母体となる『CINRA MAGAZINE』を立ち上げたのが、今回の主役である柏井万作氏。2006年の事業法人化から、およそ15年間にわたって『CINRA.NET』の編集長を務め、メディアを大きく育て上げてきた。
2003年から時代は変わり、インターネット上にはSNSをはじめとしたプラットフォームが乱立。カルチャーメディアも群雄割拠のいま、業界内外で確固たる地位を確立している『CINRA.NET』は、いかにして成長し、ブランド力を培ってきたのか。
メディア立ち上げから歩んできた決して平坦ではない20年間を、柏井氏にじっくりと振り返ってもらった。
こんなすごい人たちがいるのに、なんで誰も紹介しないんだろう?
7歳上の兄の影響を受け、物心ついたころからまさに音楽漬けだったという柏井氏。洋楽や日本のヒップホップに心酔し、プレイヤーとしてもバンド活動に熱中する日々を送っていた。大学時代からはオルタナティブ・ロック・バンド『メカネロ』のキーボディストとして活動し、着々と人気を得る。
「『メカネロ』は当時、ライブハウスで、自分たちの音源を収録したCD-Rを配っていたんですよ。まだYouTubeもTwitterもないし、とにかく知ってもらう術がない。自分たちのことを知らないお客さんにCDを買っていただくというのはすごくハードルが高かったから、無料で配るという方法をとっていました。僕らと同じようにプロモーションとしてCD-Rを配っていたバンドは、実はまわりにちらほらといました。当然、CD-Rを焼くのだって大変な作業ですから、“だったら、1枚のCDにみんなの音源をまとめて、1万部刷って全国に届けよう!”と思ったんです。それが『CINRA MAGAZINE』の始まりですね」(柏井氏、以下同)
大学在学中だ。趣旨に賛同する音楽家たちからの集金と、柏井氏自身や仲間たちによる懸命な広告営業によって得た資金を元手に、音源を収録したCDをプレスして、全国のライブハウスや、自身の通う大学の構内でも手配りしてまわった。その並々ならぬ情熱のモチベーションは何だったのだろうか。
「とにかく自分たちのまわりに素晴らしいアーティストがたくさんいたんですよ。収録させてもらった中だけでも、『凛として時雨』とか、『相対性理論』とか、トクマルシューゴさんとか。すごい音楽作ってるのに、どうして誰も取り上げないんだろう?って。自分のまわりにいる面白いアーティストたちをとにかく世の中に知ってもらいたい、カルチャーシーンを作りたいという思いで、『CINRA MAGAZINE』を作っていました」
『CINRA MAGAZINE』はその名のとおり、CDの形をした雑誌=読み物メディアでもあった。CDプレイヤーに入れて音楽を聴けるだけではなく、PCに取り込めばCD内に保存されたHTMLファイルを介してブラウザが立ち上がり、ウェブ上で旬なアーティストのインタビューが読めるという、画期的な仕組みをとっていた。当時は作品投稿サイトだった『CINRA.NET』も、次第に『CINRA MAGAZINE』同様、記事を主体としたウェブメディアに生まれ変わっていった。
学生団体としてCINRAの運営に携わっていた柏井氏。周囲の同級生たちが就職活動を始めたころ、「絶対に就職はしたくなかった」のだという。
「とにかく音楽が大好きだったので、音楽で食べていくと決めていました。大学卒業後、父親に“2年間だけ置いてやる”と言ってもらい、メカネロとCINRA、両方をとにかく頑張ろうと決めました。結果、幸運にも両方うまくいって、1年でバンドがデビュー。2006年、バンドで2枚目のアルバムを作ろうっていうころに、CINRAを法人化したので、CINRAのほうもものすごく忙しくなったんです。忙しさだけならまだしも、最初の社員が徹夜で仕事をしてるのに、僕はバンドのレコーディングで2週間休みます、みたいな働き方が自分の気持ち的にも無理になって……。僕がCINRAのほうに専念すると言ってバンドを抜けて、ちょうどいろいろなタイミングも重なってバンド自体が解散になってしまったのが2007年でしたね。
その分、やっぱりCINRAを始めた当初から持っていた、自分のまわりの才能あるアーティストたちをバックアップしたいという思いを強くしましたし、影響力のあるメディアを作れたら、お別れしてしまったバンド仲間たちに何か恩返しできることがあるかもしれない、という思いもあって。20代後半はCINRA一本でがむしゃらに働きました」