まっすぐな祈りを阻む無常という現実

 星野源の音楽では祈りとともに、よく歌われているテーマがある。それは、すべてのものが移ろいゆくこと、すなわち「無常」である。

《僕たちはいつか終わるから
踊る いま》
──星野源『SUN』より

《いつまでも続くことなんかは
そうないさ マンガもそう 終わるのさ》
──星野源 『ブランコ(House Ver.) 』より

 星野源はいつか私たちがいなくなることを歌ってきた。これまでの連載で書いてきたどの曲にも、その無常性は通底してあったように思える。また、その描き方は悲しみいっぱいにさめざめと、というわけではなく、ポジティブな諦めとして、とにかく冷静に歌われているように聴こえる。

 無常に対する静観として、真っ先に思い出すのは『桜の森』の物語だ。

《僕はただ見てる それをただ見つめてる
花びらに変わる 君をただ見つめているよ》

──星野源 『桜の森』より

 いかようにも捉えられる文学的な歌詞だが、まじまじと感じるのは、桜の木が花びらへと変わる瞬間、つまり生命が“モノ”へと移り変わる瞬間に対して、動ずることなく「ただ見つめてる」と歌う、その静観っぷりである。思いやりがないのでも、感情を殺しているのでもない。命の循環と共在しようとする、確かな息遣いを感じる。

『Family Song』においても、このような無常への静かな態度は垣間見える。

《救急車のサイレンが
胸の糸を締めるから》

《出会いに意味などないけれど
血の色 形も違うけれど》

 寄せる死の影、私たちは根源的にひとりであること、その存在の儚(はかな)さが、サビの祈りの前にほのかに示されている。つまり、『Family Song』で歌われるまっすぐな祈り、それを耳にする私たちは、そのような願いが無常という現実に阻まれて「叶(かな)わない」運命にあることをすでに知っているのだ。

 星野源リスナーならばなおさら、その耳にこれまで歌われてきた無常を焼きつけていると思う。そうした無常と祈りのコントラストは、他の曲の中にも見受けられる。

《決してもう二度と戻らぬ日が
いつまでも輝けばいいな》
──星野源 『生まれ変わり』より

《昨夜の寝相に
先立たれたかと焦る
増えていく しわに刻み込む
ああ できればこのまま
同じままで 同じように》
──星野源 『喧嘩』より

 だからこそ、星野源の音楽から聴こえてくる祈りとは、単なる希望や、ましてや自分本意な欲望を叫んだものではないだろうと、私は感じている。

《いつまでも側にいることができたら
いいだろうな》

 この世の無常を知り、自らの存在の非力さを噛みしめたうえで、それでもあふれ出てしまう何か。それはこぼれ落ちている。限界まで自己の“くだらなさ”を深く見つめようした眼差しが、他者への慈しみへと転じたものといえるのかもしれない。

「もうダメだ」と思ったときにやっと見える希望、「ここからいなくなりたい」と思ったときにそれでも生きたいと思える境地のように、自分の意思を超えてなぜか同時に沸きあがるものである。

 星野源の詞の祈りの中には、常に「それでも」が隠れていると私は思う。その祈りは単なる気休めや思考停止から生まれたものではなく、ひとりきりの深い内省からこぼれ落ち、なぜか生まれた私の中の他者そのものだ。それは『不思議』や『恋』とも通じている。