稲垣潤一の「夏のクラクション」は、もともと“お蔵入り曲”のタイトルだった

 Spotify第2位は、稲垣潤一の'83年シングル「夏のクラクション」。本作は、当時のシングル売り上げでは累計約8万枚、売野作品の中では87番目のヒットと決して上位ではないが、現在のシティポップ・ブーム以前から、ゴスペラーズやパク・ヨンハ、太田裕美など多くのアーティストがカバーするほど人気が高まっていた。まさに“記憶の名曲”と言えるだろう。

「この曲は、初対面の方に“どういった楽曲を書かれたんですか?”って尋ねられて『夏のクラクション』って答えるたびに、どよめきが起こるほど人気だね。数年前、クレイジーケンバンドの横山剣さんからも、“僕、この曲大好きなんです。いつかカバーさせてください”と言われてうれしかったよ(実際、'21年にアルバム『好きなんだよ』にてカバー)。この歌は、アーティストの中でも好きだという人が多いよね」

 本作は、'73年の映画『アメリカン・グラフィティ』のラストシーンがベースになっているということは売野の著書『砂の果実』(朝日新聞出版刊)にも書かれているので、詳しく知りたい方はそちらを読んでいただきたい。

この曲は、完全なる詞先。もともとは、伊藤銀次さんの3枚目のアルバムのために書いた曲のタイトルだったんだ。銀次さんには、まだ自分にヒット曲がないころ、たくさんの楽曲の歌詞を書かせてもらって大変お世話になったんだけど、'82年あたりから、銀色夏生さんという芸術肌の作詞家が出てこられて。それと同時に、俺は(中森明菜に提供した)『少女A』がヒットして歌謡曲のカラーがついてしまったというのもあって、銀次さん的には『夏のクラクション』が合わないと思ってボツになったんだろうね。

 ただ、プロデューサーの木﨑賢治さんは、“売野さん、これはすごくいいタイトルなので、僕に預からせてください”とおっしゃったんだけど、ただの慰め言葉かなと思っていたんだ。同じころに筒美京平先生から、稲垣潤一さんの曲を一緒に作らないかって誘われて、他にいいストックもなかったのでそちらに渡しちゃった

 '83年の前半、筒美京平からの提案で、野口五郎「過ぎ去れば夢は優しい」や河合奈保子「エスカレーション」といった売野雅勇×筒美京平コンビでの楽曲制作が始まった。筒美京平が売野を気に入って、さらに稲垣潤一も、と誘われたら、ベストを尽くそうというのは当然の流れだろう。

「内容自体はほとんど書き換えたんだけど、サビの《夏のクラクション Baby もう一度鳴らしてくれ》は、最初のまま残していたんだ。京平先生からは、“とても音楽的な歌詞なので、すぐ(曲が)できちゃった!”って褒められて、すごくうれしかったね。当時ディレクターだった京平先生の弟さんからも、“(帳尻合わせに使われることも多い)Babyという言葉が、詞先なのに入っているなんてすごいね”と感心されたよ」

作詞にまつわる思い出を語る売野さんはとても生き生きとしていた 撮影/伊藤和幸

 ちなみに木﨑プロデューサーとは、その翌年、吉川晃司の「サヨナラは八月のララバイ」や「LA VIE EN ROSE」の歌詞を提供するなど、別の形でコラボが続いた。特に「LA VIE EN ROSE」は、このSpotifyでも16位に入っており、吉川のソロ曲として100万再生を超えているのは「モニカ」と本作のみという人気ぶりだ。

「『LA VIE EN ROSE』は、木﨑さんの発案で、大澤誉志幸さんと、彼のソロデビュー曲をつくる目的でワークショップをやって、その場でやり取りしながら2日くらいで作った作品なんだ。結局、本人ではなく吉川晃司さんが歌うことになるのだけど。『サヨナラは八月のララバイ』のほうはタイトルだけで10個候補を出すなど、木崎さんのプロジェクトはハードルが高くて、勉強させていただいたね」