毎年6月はLGBTQ+(「L:レズビアン」「G:ゲイ」「B:バイセクシュアル」「T:トランスジェンダー」「Q:クエスチョニング」「+:プラスアルファ」)の権利を啓発し、一人ひとりのプライドを讃え、当事者へ眼差しを向け理解を深める「プライド月間」だ。海外の「クィア」(性的マイノリティや、既存の性のカテゴリに当てはまらない人々の総称)を登場人物に扱った作品の公式アカウントでは、6月に入るとLGBTQ+の象徴であるレインボーフラッグの写真などをアップして当事者への連帯意識を表明しているが、日本のいわゆるBL(ボーイズラブ)作品やその他のマイノリティを題材とした作品からは、いまいちそういったアクションが見られない。

 いちライターとして、現状を少しでも前に進めるために何かできることはあるだろうか──そう思ったとき、大好きな映画に登場する愛おしい3人のクィアキャラクターについて、今こそ語るべきだと思い立った。彼らは”彼ら”として、他の誰でもなく、確固たるプライドをもって生きている。虹色に輝くエネルギーを抱きながら、今日明日、これからの人生を歩むプライド(生き様)を多くの読者に伝えたい。そんな強い思いで、今回の筆を執った。

『リトル・ダンサー』より─マイケル・キャフリー

 まず綴りたいのは、ロンドン・ロイヤルコートの芸術監督であり、100本を超えるブロードウェイを手がけた”舞台の名手”スティーブン・ダルドリーの長編第1作『リトル・ダンサー』に登場するマイケル・キャフリーという少年だ

 炭鉱町に住む主人公ビリーは、父親に習わされていたボクシングにいまいち身が入らずにいたところ、偶然にも同じ稽古場で行われていたバレエのレッスンに釘づけになり、その後バレエに熱中するようになる。次第に才能を開花させていくビリーのそばにいるのが、彼の親友であるマイケルだ。マイケルはドレッサーの前で唇に赤いリップを塗り、姉のドレスを着てビリーに「ママのドレスを着てみる?」と問う。マイケルが初めてビリーにクィアな面を見せるシーンだ

 バレエ学校の受験に合格し、町を出るビリーを見送るマイケルは、彼のもとに駆け寄り別れのキスをするのだった。14年後、ビリーが主役を務める大劇場での公演。ビリーの父と兄のトニーが駆けつける中、座席の隣にいたのは大人になったマイケルだった。

「僕だよトニー 忘れたのか?」

 ドレスアップした彼のそばにはボーイフレンドがいた。マイケルの舞台を見つめる瞳は、少年のころにビリーを見つめていたものと何も変わっていなかった。

 ビリー・エリオットに恋をしたという人生の経験が、いかにマイケルの支柱となり、日々を生きる糧となったことだろうか──と逡巡(しゅんじゅん)し、何度観てもため息が漏れるラストシーンだ。25歳となったビリーがあの日自分にキスをしたマイケルへのアンサーのようにその脚で跳躍するのが、クラシック・バレエの代表作「白鳥の湖」を男性同性愛者の悲恋物語として再解釈したマシュー・ボーン版というのにも注目したい。彼は自らの、その鍛え抜かれた芸術ともいえる身体で、マイケルと自分自身の過去を回想し、観客席にいる彼に応えたのだ。あの日、幼かった僕を愛してくれてありがとう、と。

『プラダを着た悪魔』より─ナイジェル

 2000年代に大ヒットした映画として今なお愛されるキャリアアップムービーの代表格、『プラダを着た悪魔』に登場するナイジェルも私が愛するクィアキャラクターのひとり。彼がクィアな面を覗(のぞ)かせるのは、凄腕だが人を振り回すファッション誌の編集長・ミランダのもとにやってきた新米アシスタント・アンディに叱咤激励を飛ばすシーン。

 幼いころのナイジェルは、サッカー部のふりをして実際には裁縫部に通い、布団に隠れて”ランウェイ”を読んでいた少年だったと自身を語り、今はその少年が夢見た”ランウェイ”に身を置いている、ここは最先端なんだ、とアンディを諭す。

 筆者はこの台詞が劇中で最も”重み”があると感じていて、ナイジェルのこれまでの苦悩と今の地位に上りつめるまでの果てしない努力を垣間見、アンディのように勇気づけられたものだ。

 夢や希望を持ち、望んだ場所で働くことは誰しもに与えられた権利であると同時に、自分らしくあるために”自らが選び取るもの”だと教えてくれたナイジェルのことは、今でも”人生の先輩”として慕っている。

『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』より─アルバス・ダンブルドア

 最近の映画でいうと、『ハリー・ポッター』シリーズのスピンオフである『ファンタスティック・ビースト』シリーズの最新作『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』では、前シリーズでホグワーツ魔法学校の校長だったアルバス・ダンブルドアのゲイ/クィア性と深い人間性に焦点が当たった構成になっている

 原作者のJ・K・ローリングは以前行われた朗読サイン会で「(ハリー・ポッターの本は全体的に見て)寛容を説き偏見をやめるよう願う長い物語になっている」とコメント。そんな彼女もSNSで一時論争を引き起こす発言をしたことにより注目の的になったが、あえてここでは議論しないでおく。彼女個人の見解と純粋な創作とを引き離したうえで、今の、そして未来の子どもたちへ向けたメッセージを伝えようとするのは──それも圧倒的なネームバリューによる力強さで──、今後のためになると信じたい。同時に、ウィザーディングワールド(魔法界)の物語が提示する”愛の複雑さ/綿密さ”に惚れ込んだ筆者からすれば、アルバスというひとりの人物の物語もまた尊く、大切なものであると胸を張ってその素晴らしさを説きたい思いだ。

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 愛を信じ、愛に生き、自分らしさを捨てない彼らの存在は、クィアな人々に連帯を表明する後押しになるはずだ。さまざまな愛に根差す彼らの物語、そのどれもが、寛大さについて考えることをうながす今日明日のための物語なのだ、ということをこの文章で伝えられていたら嬉しく思う。

(文・安藤エヌ/編集・FM中西)