また余震が来るかも……。不安の中、見上げた空に満月
──印象に残っている避難所でのライブを教えてください。
「それはめちゃくちゃ多いけど、まずは初日、1995年2月10日に、地域の避難所になってた、西灘の青陽東養護学校でのライヴ。灘区は倒壊で亡くなった人がいちばん多い地域やったけど、俺らにとって、被災地での1本目のライブでね。行く前、演る前は、ライブがどういう雰囲気になるか不安やったけど、結果的にかなり盛り上がって。それはそれはホッとした。俺にとって、初めて三線を弾いて人前で歌った記念すべき日やねんけど、演奏後に片づけをしてたら一人のおばちゃんが俺のところに近づいてきて、 “ありがとうな”って話しかけてきた。“今回の震災で、子どもも夫も家族全員亡くなって、家もなくなって一人ぼっちになったと。泣きたくてもずっと泣けなかった”って」
──心情を考えるとつらいですよね……。
「“あんたが歌った『アリラン』(朝鮮民謡)で、やっと思いっきり泣けた、ありがとうな”って言われて。なんて返していいのかわからなくて“また来るから元気でおってな”くらいしか言葉が出てこない。そうしたら、逆におばちゃんが“兄ちゃん、頑張りや!”ってバーンと背中を叩いてきて。そこで、自分の音楽人生が決まったような、俺にとって大事な瞬間で」
──被災地での活動はどれくらいのペースで続けていましたか?
「初日が終わったその帰路、メンバーとも、“あまり深く考えずに、被災地での音楽活動を続ければいいんじゃないか”って意見が一致した。それから2日に一度、避難所で演奏する日々が始まった。1995年の2月14日が、ちょうど震災が起きた1月17日以来、一巡目の満月の夜でね。その日は、長田の南駒栄公園避難所のライヴで、普段は大阪から1時間で行ける道が大渋滞で6時間かかって。21時ごろに着いて、寒空の下で待っててくれたみんなに、“お前ら遅いぞ”とか言われながら、“すぐに演るわ〜”とか言いながら、速攻で演奏をして」
──音楽で癒やされていたのかもしれないですね。
「ライブが終わった後に被災者の人たちとドラム缶の焚き火を囲んで酒を飲んでたら、そこにいたみんながみんな、空を見上げながら“満月見るの、怖いな〜”って口々に言う。ちょうど最大余震がそろそろ来るっていう噂が高まってた時期で。その次の日に一気に書き上げたのが『満月の夕』なんよね」
──中川さんの経験から生まれた曲ですね。『満月の夕』はたくさんのミュージシャンにカバーされています。
「東日本大震災が起きたときに、TOSHI-LOW(BRAHMANのボーカル)からは、いろいろな話を聞いたんよね。阪神・淡路大震災のときに彼はまだ20歳くらいで、俺らの活動はピンとこなかった、と。ボランティア活動自体に偽善くさいものを感じたりしてたらしい。でも、2011年に東日本大震災が起きて、最初に浮かんだのは『満月の夕』やったって言ってた。被災地に救援物資を持っていくと、“兄ちゃん、ミュージシャンなら歌ってくれ”って言われるけど、パンクバンドだからそういう場所で歌える歌がない。そのときにパッと俺のことが浮かんだって。TOSHI-LOWもそこからアコギを持ってひとりで歌うようになっていった」