今、若い世代からも、また海外からも熱い注目を浴びている昭和ポップス。昨今では、音楽を聴く手段としてサブスクリプションサービス(以下「サブスク」)がメインで使われているが、必ずしも当時ヒットした楽曲だけが大量に再生されているわけではなく、配信を通して新たなヒットが生まれていることも少なくない。
そこで、本企画では1970年、80年代をメインに活動した歌手の『Spotify』(2023年8月時点で5億1500万人超の月間アクティブユーザーを抱える、世界最大手の音楽ストリーミングサービス)における楽曲ごとの再生回数をランキング化。当時のCD売り上げランキングと比べながら過去・現在のヒット曲を見つめ、さらに、今後伸びそうな“未来のヒット曲”へとつながるような考察を、本人または昭和ポップス関係者への取材を交えながら進めていく。
約1年間にわたってベテラン・アーティストの「過去・現在・未来」におけるヒット曲を考察してきた『未来へつなぐ昭和ポップス』も、今回をもって一区切りすることとなった。本連載のラストを飾るのは、1980年代後半、中山美穂、浅香唯、工藤静香とともに“アイドル四天王”と呼ばれた南野陽子。'85年にシングル「恥ずかしすぎて」でデビュー後、主演ドラマ『スケバン刑事』シリーズで一気にブレイクし、その映画版主題歌「楽園のDoor」からは8作連続でオリコン1位を獲得した。
国内リスナーが圧倒的に多い南野陽子、音楽鑑賞は「CDで聴くのが好き」
今でも俳優業とともに音楽活動を継続している南野だが、Spotifyでの月間リスナーは常時6~7万人、海外リスナーは1割弱。“シティポップ”の範ちゅうにくくれない独自の世界観を展開していたためか、まだ若い世代や海外からの反応は少ないようだ。とはいえ、今でも数年ごとにリリースされる企画CDは常時週間TOP50に入るほどの人気を維持する南野ゆえ、今後そのアイドル性の高さが広まることも大いに考えられる。ちなみに、南野自身にストリーミングサービスを活用しているか尋ねたところ、
「お家にいるときは、CDで聴くのが好きなので、外出する際にたまに使う感じですね」
とのこと。では、さっそくSpotifyでの人気順を見ていこう。
「吐息でネット」が圧勝! 南野のイメージは“阪急神戸線沿いに住む女学生”
第1位は、通算11作目のシングル「吐息でネット」。オリコンのシングルレコード売上でも唯一30万枚を超えており、シングル売り上げ順でも1位。実は、ジャケット表記上は「吐息でネット。」と句点がついているが、南野本人は句点をつけて自ら紹介したことはなく、こだわりはないようだ。
本作は、カネボウ春のイメージソングとして、本人も出演した一大キャンペーンソングだったが、どういった心境だったのだろうか。
「化粧品のCMソングといえば、私のデビュー前、ちょうど松田聖子さんが担当なさっていたころにスカウトされたので、“自分もこういう世界に行けるのかな?”みたいなワクワク感を覚えていますね。だから、このお仕事のお話をいただいたときはとてもうれしかったんです。ただ、当時はCMソングという事情からNHKで歌えなかったのと、他のスポンサーとの関係で『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)でも歌えなかったので、実は意外とテレビでは披露していないんですよ」
それでも、彼女の楽曲の中でダントツに再生されているので、いかにこのタイアップが絶大な効果を発揮していたかがわかる(ちなみに、同年の秋のキャンペーンソングは、工藤静香「MUGO・ん…色っぽい」で、こちらも大きくヒットした)。
「吐息でネット」の作詞は、自らバンドのボーカルやデュオとしても活動していた田口俊。南野作品では、本作のほか第9位の「パンドラの恋人」や第12位の「あなたを愛したい」など、オリコン1位曲やアルバム収録曲を多数手がけており、南野陽子の楽曲を通して彼の名前を知った人も多いことだろう。
「楽曲の発注は、当時のディレクターさんにお任せしていました。ただ、私は“等身大の女の子”の物語が感じられるものを好んで歌っていたので、そのシーンが思い浮かんで、青春の1ページを切り取るのが上手な方が、田口俊さんや小倉めぐみさんだったんでしょうね。たまに、歌詞を読んでも“ちょっとよくわからない”という場合には1行、2行書き換えてもらったこともあったので、
さらに、「売れてから、ディレクターさんが後づけしたのでは?(笑)」と注釈しつつも、当時のスター化戦略を彼女なりに考察してみせた。
「'80年代の流れとして、歌詞の世界観が松田聖子さん型と中森明菜さん型に二分されるようなところがありましたが、“この子はどちらにも属さないのかも”ということで、周囲が私のあり方を模索していったんでしょうね。ディレクターさんいわく、“阪急神戸線沿いに住んでいる子で、歩いている道は川の近く……”というイメージがあったそうです。私は、そういうことを意識せずに歌っていましたが、実際、阪急神戸線の一部は、学校帰りの寄り道コースとしてなじみがありました」