2023年2月5日、グラミー賞の最優秀グローバル・ミュージック・アルバム賞を宅見将典さんが受賞した。’18年に亡くなった西城秀樹さんの甥にあたる宅見さんは昨年、秀樹さんの未発表曲『終わらない夜』を作曲・プロデュース。“叔父さん”との音楽制作エピソードやプライベートな交流を明かしてくれた──。
グラミー賞受賞を記念して、貴重な宅見さんのインタビューを再掲します。(初出:2022年10月6日公開/タイトル:『西城秀樹さんは終わらない。「男のロマンがあるんだよ……」愛した場所と新曲のリリース』)
2022年10月5日、西城秀樹さんの「新曲」がリリースされた。
タイトルは『終わらない夜』。
誰もが認める永遠のスターの逝去から4年──。未発表のままのこっていた歌声が新たに録音されたバンドのサウンドとともによみがえり、大きな感動を呼んでいる。
作曲とプロデュースを手がけたのは、秀樹さんのバンドのギタリストとして活躍し、実の甥(おい)でもある宅見将典さん(43)。現在は米ロサンゼルスにも拠点を置くが、9月のコンサートの前に日本で話を聞いた。秀樹さんが遺した思いとは……。
『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』に導かれて
「この曲を書いたのは2006年。秀樹さんのバンドでギターを弾きながら、作曲家としても活動を始めたころでした。秀樹さんが “じゃ、書いてみろよ” とチャンスをくださったんです。秀樹さんと相談して、ジャジーでファンキーなカッコいい曲にしようよ、と。
そのときの自分はまだ27歳。つたないデモ音源なんですが、私が歌ったデモの仮歌を聴いて秀樹さんが覚えてくださった。で、バンドのメンバーはみなさんプロなので、リハーサルしたらすごくいい感じで。コンサートの1曲目でやることになりました」
──タイトルは最初から『終わらない夜』に?
「はい。決まっていました。歌詞は僕がいろいろ作詞をお願いしていた柳達基(やなぎ・たつき)さん。もともと僕の高校の英語の先生なんですが、プロとして作詞もしている方です。しかも秀樹さんの世代。それで、秀樹さんがイメージする曲の世界を僕が伝えて。
だから、秀樹さんの監修のもとにできた曲だと思います」
──ざっくり秀樹さんからは、どういう発注があったんですか。
「とにかく男の、カッコいい、夜の歌にしたいと。ジャズしかり、ブルースしかり。お酒を飲みながらバーで聴いたりする感じで。秀樹さんもバーカウンターは大好きじゃないですか。
とにかくどれだけホールが空いていても、カウンターに座るっていう」
──そうなんですか!
「いっつもです。カウンターがあれば、ぜったいカウンターに行くんです。お好み焼き屋さんでもどこでも。食べにくいと思うんですけど(笑)。
いちど理由を聞いてみたんです。“秀樹さん、こっちに座らないんですか?” “いいんだよ、こっちで”。なんでですか!? って聞いたら、“男のロマンがあるんだよ”って言われました(笑)。とにかくカウンターは男のロマンだそうです」
「なので、そういうバーカウンターで聴いてもカッコいいような世界観に。
そのころ秀樹さんは『Same old story -男の生き様-』という曲を出されているんですけど(シングル『めぐり逢い』のカップリング)、それがホーンセクションの入ったブラスの効いた曲なんですよ。“これ、カッコいいよね〜”と言ってたのでその曲を意識しながら、テンポはもっと早くしてみました」
──『終わらない夜』はいちどコンサートで披露されたあと、レコーディングもされた。
「秀樹さんも気に入ってくださって、2007年に録音しています。ただ、当時のメジャーレーベルをとりまく音楽状況として、なかなかCDが売れない時代で。どうしても確実にセールスが見込める作品が求められる傾向がありました。
そうしたなかで秀樹さんにはあまりに有名な金字塔の曲がありすぎて、新曲を出そうという機運には至らず……。で、いったん置いておこうと、そのまま次に向かったんです。するとだんだん私も忘れていくし、秀樹さんもまたご病気をされた。決して曲がボツになったわけではありませんが、録音されたままずっと眠っていたんですね」
時は流れて、秀樹さんが亡くなった約1年後の2019年。ロサンゼルスに拠点を移していた宅見さんが、ふと『終わらない夜』を思い出す瞬間がやってくる。
「車でフリーウェイを走っていたら、秀樹さんの『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』のジャケットに写っている高層ビルが見えたんです。空港の近くのセンチュリーシティという場所なんですけど、なんとなく話には聞いていたので、降りて近くに行ってみました。写真と同じように建っていて、“ここで撮ったんだ〜”って不思議な感覚になりましたね。
秀樹さんと僕は叔父・甥の関係で、同じ業界・違う職業ですけど、やっぱり海外に住んでいると祖国のことだったり、家族のことだったり、いろいろ考えるんですよ。そんな感じでビルを見上げていたら、この場所に導いてくれたのも秀樹さんなんだ。自分は知らず知らずのうちに秀樹さんの背中を追っていたんだ、と気づかされました」
「そして『終わらない夜』を出すなら今だ、と思ったんですね。秀樹さんの歌声のデータはのこっていますから、当時のオケ(伴奏)とは別に、今の自分がしっかりプロデュースしてやり直せば、いいものができるという確信がありましたし。
20代の自分はまだまだ未熟でしたが、30代からいろいろな仕事をやらせてもらって、こういう大人の雰囲気のある楽曲を手がけるにはいちばんいい時期なんじゃないか、と。アメリカで築いたコネクションを駆使して、腕ききのミュージシャンたちを集めて、秀樹さんを最高の形でプロデュースしたいと思いました」
コロナ禍の影響もあって実際には3年がかりの作業となったが、
「奥さん(美紀さん)とマネージャーの片方(秀幸)さん、ファンクラブの(中田)葉子さんにご相談して許可をいただいて、今年の2月にニューヨークでレコーディングしたんです。
結果的に秀樹さんのデビュー50周年を飾ることができてよかったです」
秀樹さんの「楽屋」は今も
2022年には久しぶりのコンサートも開催され、もちろん宅見さんもギターで参加した。4月に横浜・神奈川県民ホールと大阪・オリックス劇場で開かれた『西城秀樹コンサート THE50』と、9月のZepp DiverCity TOKYOでのアンコール公演だ。
ありし日の秀樹さんの歌声が響きわたり、スクリーンには生前のエネルギッシュな映像。生演奏でバックアップするバンドは、長年にわたって秀樹さんを盛り立ててきたメンバーたち。2017年のコンサート『THE45+1』と同じメンバーが集まった。
「秀樹さんが2018年にお亡くなりになって、2019年はまだ一周忌。そのあとにコロナが来て……。だから2022年、秀樹さんのデビュー50周年で集まれて本当にうれしかったです。
僕らバンドだけじゃなく、音響さんや照明さんや全スタッフが集まりました」
──お客さんもとってもうれしそうでした。声だけの秀樹さんと一緒にステージに立っているとき、どういう気持ちになるものですか?
「われわれですか? いつもと一緒ですよね。ステージ上にマイクスタンドはあるし、バンドメンバーの立ち位置は一緒だし、聴こえてくる声も同じなんで。
しかも、今までもずっと秀樹さんの背中を見ながら弾いていなかったので……」
──ああ、そうなんですね!
「どちらかというと譜面と正面のお客さんを見ています。みんなが秀樹さんを見ていてもおかしいですし」
──では、今もご一緒にやっている感覚なんですね。
「はい、もう何も変わらず。秀樹さんの楽屋もありますし。
僕はX JAPANが大好きなんですが、コンサートで楽屋に行かせてもらうとHIDEさんの楽屋がぜったいにあるんですよ。もうHIDEさん、いらっしゃらないじゃないですか。でも、ちゃんとバックステージには楽屋があります。
秀樹さんも(マネージャーの)片方さんが “とにかくおんなじでやりたい”と。だから神奈川でも大阪でも秀樹さんの楽屋がありました。部屋の中は空っぽですけどね。誰もいないので、僕が座らせてもらったりしていましたけれども(笑)」
──楽屋のドアには何か貼ってあるんですか?
「《西城秀樹様》って書いてあります。何かお供え物みたいですけれども、中にお弁当も置いてありますし。そうじゃないと意味がない」
秀樹さんにとことん鍛えてもらった!
──そもそも宅見さんがバンドに入ったのは何年からですか。
「2004年ごろです。当時やっていたバンドをやめてどうするの? というときに秀樹さんが “バンド入れよ”と。もうひとつは作曲家として入る音楽事務所を紹介してくださって。それがあったから今も仕事を続けていけています」
──最初からギターだったんですか。
「はい。僕はもともとドラムでプロデビューしているんですけど、秀樹さんくらいのバンドになると、若いロックドラマーではとても務まらない。ベースも弾きますけどやっぱり違うし、ピアノもそんなに上手くはなかった。ギターならちょっと演奏しながら、勉強できるだろうと考えてくれたんだと思います。
ただ、このときギターがもう2人いらっしゃって、さらに僕ですよ。普通、ギター3人もいらないじゃないですか(苦笑)」
──当時、まだ芳野藤丸さん(1970年代から「藤丸バンド」で秀樹さんをサポート)はいらしたんですか?
「いらっしゃいました。もう1人ヒデさん(黒田秀雄)という方がいて、僕は3人目でアレンジャーを兼ねて雇ってもらいました。3人もいらんなって、自分でも思いましたよ。ミュージシャンの人から見たら、家族だから来たんだろうって。僕が逆の立場でもそう思いますし、アレンジ上必要ありませんし。内心申しわけない気持ちでした。
だから邪魔にならないようにシェイカー(リズム楽器)を振ったり、アコギを弾いたりしました。そのあとヒデさんがやめて、藤丸さんとツインギターになったんですね。しばらくしたら藤丸さんもやめられて。気がつけば10年以上、私1人でやらしてもらっています」
「(全部まかせてもらって)いいんですか? という気持ちと。でも、負担もより増えてきますから、秀樹さんに “1人だとキツいんです”と言ったんですね。コーラスして、バッキングからギターソロにいって、ギターソロ終わりで足(エフェクター)踏んで、またコーラス……みたいなことが多いんで、両手と口と足、ぜんぶ使っていました。
でも、秀樹さんは “大丈夫だろ” みたいな感じで」
──それは大変でしょう。
「だから鍛えてもらいました。ずっとギター2人でやってきたことを1人でやるというふうに、秀樹さんが勉強させてくださった。こうやってお話しする機会をいただいて、話せば話すほど、自分はそこで救われたんだなって気づかされますね。
本当に優しい方で、片方さんもインタビューでおっしゃっていましたが、レストランとかでも絶対に “外で待ってろ”なんて言わない。僕もいつもご飯に呼んでもらいました」
(マネージャー・片方秀幸さんインタビュー記事はこちら→西城秀樹さんと35年、間近に接した愛すべき素顔「飲み屋で隣り合った人と──」)
楽しい思い出しかないけれど……
「(病気をしてからは)お酒そんなに飲んだら駄目なのに、水のふりして焼酎を飲んでるので、それを僕が水にかえて。そしたらそれをまた秀樹さんが焼酎にかえてとか(笑)。
僕は“秀樹さん、飲みすぎたら駄目ですよ”って、ちょっと母親のようにお酒の心配をしていましたね。すると、その横で片方さんが、小っちゃい声で“ちょっと焼酎入れて……”とかって言ってるんですよ(笑)」
──あ、完全な真水だとバレバレですからね(笑)。
「本当にいろいろなツアー、ブラジル、サンフランシスコ、オーストラリア、韓国……海外にも連れていっていただいて。
だから勉強させてもらいながらも家族旅行をしていました。演奏が終われば、叔父さんとの家族旅行になるんです」
──そういうときは、やはり呼び方とかも変わるんですか?
「ふだんから “まーくん”だったり、“お前”だったり。まず “将典”とは言わなかったですね。
1回メンバー紹介のときに僕のフルネームを忘れて、“オン・ギター……”で迷って、迷ったあげく “まーくん!”って言ったことがあります(笑)。ドラムの方は渡辺豊さんなんですけど、豊を忘れて “ドラム………渡辺!”と言ったこともあります(笑)」
──そんなところもチャーミングですね。
「もう楽しい思い出しかありません。悲しい話なんてひとつもない。
ただ1度だけ、とってもつらいことがありました。あるときスタジオでリハーサル中にすごく嫌なことを言われて。もちろん秀樹さんは冗談のつもりだったんですが、あまりにも僕の顔色が変わっていったので、みんなが見ている前で僕に頭を90度ぐらい下げられたんです。
なんかもう泣けてくるんですけど……。
許せなかった自分への葛藤というか、なんであなたがそんなことを言うのって悔しさとか、いろんな感情がごっちゃになって、僕もボロボロ泣いちゃって。最終的には頭を下げられたことが、また悲しくて。こんな大尊敬する叔父さんに、なんてことしちゃったんだろう、と」
「でも次の日が面白いんです。またリハだったので “おはようございます!”って入っていったら、秀樹さんがチラッチラッこっちを見てくるんですよ。何かこう、僕がずっと怒っているんじゃないか!? みたいな。けっこう、気にしぃなんです(笑)。
そのとき、秀樹さんは赤いジャケットを着ていたんですけど、急に “お前、これ着てみよろよ”って服をプレゼントしようとしてくるわけですよ(笑)。まだ僕ガリガリでやっと着られるぐらいで、どう見ても袖も長くてブカブカで」
──秀樹さん、背が高いですからね(身長182cm)。
「なのに “着てみろ”と言って。手なんてぜんぜん出てないのに “ぴったりじゃないか!”って嘘までついて(笑)。 “お前、着て帰れ”って、寒いのにTシャツのまま帰られました。僕、大切にその赤いジャケットを持ってます」
夢に出てくる秀樹さん
──お亡くなりになる前に、最後にお話したのはいつだったんですか?
「2017年のコンサートが終わったあと、ビザを取ってロサンゼルスに移住することが決まっていまして。僕が出発する直前にお電話をくださいました。
たぶん、しゃべるのもつらかったと思うんですけど、“頑張ってね”とひと言だけ。それが最後の会話になりました」
秀樹さんが倒れた2018年4月。宅見さんはたまたま所用で日本に帰ってきており、病室に駆けつけることができたという。
5月16日、享年63歳──。
東京・青山斎場で営まれた通夜・告別式(5月25日・26日)には友人、知人、関係者のみならず、日本全国から1万人ものファンが参列した。
「葬儀まで本当にいろいろな準備があってご家族は大変だったので、僕も半分アースコーポレーション(事務所)の社員のようになって、お手伝いをさせていただきました。出棺のときに流された『ブルースカイ ブルー』は、秀樹さんがいちばん好きなバラード。西城秀樹といえば『YOUNG MAN(Y.M.C.A.)』だろうという話もあったんですが、それはちょっと……。秀樹さんがきっと “それ、おかしいよ”って言うだろうなぁって。
あとはやっぱりご本人のこと。葬儀までけっこう日数があったので、秀樹さんがなるべくいい状態でいられるようにしてほしいとお願いしました」
──では、本当に最後の最後まで、カッコいい秀樹さんだったんですね。
「はい、カッコよかったですね。病院で寝ている最中も、最初はどうしても水分でむくむんですけれど、どんどんシャープになっていくんです。ものすごくカッコよくなっている。最後がいちばんカッコよかった。だから、本当にすごいなぁと思います。
秀樹さんはご病気もあって最後は細かったんですけど、太っていたときもあったんです。僕のいちばん好きなお姿は40代。男の色気がたっぷりのヒゲが生えた秀樹さん。まさにそういうお姿でしたね。変な話なんですけども、若返っていったという感じがしました」
──棺の中の秀樹さんは何を着ていらしゃったんですか?
「赤いシャツを。祭壇にも飾られた、あの写真のシャツを着ていらっしゃいました」
「今でも秀樹さんの夢を見るんです。夢の中ではすごくお元気で、復活している。“もう治ったよ”みたいな、めっちゃ元気な秀樹さんがよく出てきます。
きっと僕が望んでいる、今でもそうなってほしいと思っているからなんでしょう」
──それはファンのみなさんも僕らも一緒ですよね。そういう意味で、今回の新曲『終わらない夜』はかけがえのない贈り物になったような気がします。
「そう言ってもらえるとうれしいです。これは後付けになりますけど、あの曲のラストは《終わらない〜》という歌詞と歌声で終わっているんです。そこにすごく秀樹さんからのメッセージを感じてほしい。
最初にレコーディングしたときは、まさか死後に出そうなんてお気持ちはなかったと思うんですけれども。本当に最後に出る曲の最後の歌詞で《終わらない》って歌っているので、すごく希望を持てるというか」
「やっぱりファンの人たちにとっては、“もう、この先に何もないんだ”という気持ちが、何よりも喪失感を生むと思うんです。そこで《終わらない》と秀樹さんが言っている。
僕らバンドが参加するコンサートは終わるかもしれません。でも、求めてくださっている方がいるかぎり、フイルムだけのコンサートだったり、別のかたちのイベントはあると思います。またいつかね、秀樹さんの魅力をお伝えする何かができたら面白いだろうな、と僕は思っているんです」
※インタビューの後編では素顔の秀樹さんについてさらに語っていただきます。
(取材・文/川合文哉)