植物は私たちの生活において、意識せずともいつも身近にある。室内の観葉植物、庭の花壇や家庭菜園を愛でている人はもちろん、そうでなくとも普段歩く道では雑草を目にしているだろうし、毎日のように野菜を口にしているはずだ。
しかし、人々は無意識に植物を下等なものとみなしていないだろうか? はたして本当に人間は植物よりも高等なのか? そうした問いのもと、植物のふるまいについて歴史学や哲学、生物学などを横断して論じた書籍が『植物考』(生きのびるブックス)。植物に対するステレオタイプが次々と崩されていく快著だ。
著者の歴史学者・藤原辰史さんに、植物を通じて見えてきたことについてうかがった。
「自分は植物より偉い存在」って、本当?
──植物はマイルドでヒーリング効果のあるものとしてとらえていましたが、本書を読むと、凶暴で派手な動きをする不気味な印象も受けました。ヒッチコックの『鳥』という映画があって、野生の鳥が突如、人々を襲うようになりますが、同じように植物が反乱を起こすような映像も浮かんできます。
「そう言っていただけるのは大変光栄です。私、『植物考』の冒頭は一種のホラーのつもりで書いてみたんです。人間が植物に乗っ取られる日なんて、決してSFだけにはとどまらないことですよ。でも、将来、人間がもっと生きる力を失っていけば、ありうるかもしれませんね」
──今回、なぜ植物をテーマにしたのでしょう?
「私は食べることが好きなので、これまで食べ物としての植物ばかりを見てきたんです。食と農業の歴史を研究していますし、植物を“食えるかどうか”という、非常に雑な視点でしかとらえていませんでした。
ところが、それだけでは『食』そのものさえも論じきれないという思いに駆られたんです。あるとき、ミニトマトを栽培していたら、間違って茎を折ってしまいました。罪悪感に苛(さいな)まれながら、折れた枝を水に挿しておいたら、白い根がどんどん生えてきて、必死に生き延びようとしていた。そのうち、花も元気を取り戻して、“なんだこの根性は!”と、不思議と勇気づけられたんです。
よくよく考えると、自分は植物より優れた存在なのだと、ずっとマインドセットされていたことに気づきました。しかし、その考え方を注意深く頭の中で外してみることで、私の人間中心主義的な見方が崩されていくかもしれないと予感を抱いたのでした」
植物の視点で物事をとらえ直してみたら──
──人間は植物を上から目線で捉えすぎではないかと論じています。なぜでしょう?
「私たちの身の回りを注意深く観察すれば、その理由はわかると思います。例えば、本は樹木を加工してできたパルプからできている。綿のシャツはふわふわの綿花の実から作られている。食べ物も、野菜はいうまでもなく、牛、鶏、豚などの動物だって、植物からできた飼料を食べないと育ちません。そもそも、なぜ人間が呼吸できているかというと、空中に酸素があるからですね。これは人類が誕生する前から、植物がせっせと供給してくれたおかげですから。そして、植物だけが太陽光を用いて二酸化炭素と水からデンプンを生産できます。
つまり、私たちの生活の土台は植物によって成り立っているわけです。だから人間側が植物を征服し、コントロールしているととらえられてきたのでしょうが、それは人間が考えるものさしで価値を測っていただけにすぎないと思います。
もしそれを“植物のものさし“に置き換えたらどうでしょう。例えば、植物が自ら移動できないのは、むしろ“移動しなくても生きていけるから”。食べないのは、“食べる必要がないから”。もし植物が言葉を使えたら、人間に対して、“わざわざ口からご飯を入れないといけないなんて。葉緑体がない下等なやつらだ”と言うかもしれない。また、家を建てている人間を見ると、“なんと過剰な設備だろう”と感じるかもしれない。もっと言えば、植物は人間がいなくても生きていけますが、人間は植物が存在しなければ生きていけません」
──確かに私たちは人間視点で考えすぎてしまっているのですね。
「もちろん、この世界では人間はまだまだ大事にされていないと思います。安易な『人間中心主義批判』が巷(ちまた)にあふれていますが、人間社会の多様性に目を向けないものが多く、かえって危険です。これでは有益な人間の遺伝子だけを生き残らせようとする優生学にも容易に転びます。そうではなくて、植物を論じることで、そんな価値判断をしてしまう人間そのものも見つめ直し、もっと人間を深く理解したいのです。私たちは、近代社会に押しつけられた“人間”という概念の中で生きている。言語を操り、文明や文化を築いてきたことにアイデンティティを求めすぎてしまった。それが、今の社会を人間が窮屈に感じる原因のひとつだと思っています。もっと人間の人間的なものを、植物を観察することでより近くに感じたい。
『植物考』の読者の方から、“自由に考えられた”、“解放された”という感想をいただけて、うれしく思いました。植物のもつ意味を理解して人間の驕(おご)りを諌(いさ)める本なのに、人間であることの自由さを感じられるんですね。人間が持つものさしは狭すぎたんとちゃうか? と逆に問いたかったんです」
植物はゆっくり、そして激しく動いている
──本書では植物に対するさまざまなステレオタイプが覆(くつがえ)されていきますが、中でも植物は「動く」とされていたのが印象的です。
「人間視点では動いていないように見えますが、実はものすごくゆっくりと、激しく動いていることは植物学者の研究を読んで知ることができました。人間とは違う時間軸であるだけなんですね。植物の定点カメラ映像を倍速で見ると、私にはダンスをしているように見えます。私たちがマネしたくなるほど、しなやかな肢体を伸ばしてバレエダンサーのように動いている。私だけかもしれませんが、太陽光を探っていく様子など、静けさよりも激しさを感じるんですよね。
また、私たちが見落としがちなのは、地上からは見えない根です。根は土壌の中で水分やミネラルを吸収している。無数の根があって、動物の毛細血管のように細い根毛がうごめいていて、センサーを使って土壌の栄養物質や、あらゆるものを探している。まるで地底世界を探検する冒険家のようです。
そして種も移動します。私たちは生殖において、第三者に任せるなんてことはしない。しかし植物は、ミツバチ、鳥、風などに任せたりする。自分の子孫の移動を他者依存しているというのは、人間目線からすれば驚嘆すべき世界だと思うわけです」
植物性のひとつ、「浸り」は人間にとっても重要
──他に「植物性」としては何があるでしょう?
「まず、葉っぱの中にまで空気が入り込んでいるところ。本当に穴だらけなので、植物そのものが空気と共存しているともいえます。それから、いろいろなところにキスマークのような気孔がついていて、水分を排出するための蒸散をしたり、呼吸をして二酸化炭素や酸素を外界と交換したりしています。
そうした“浸り”は植物性のひとつでしょう。風でも日光でも、その環境の中に浸れるということ。ただ実は、そんな性質は私たち人間の中にもあります。湯船につかる、森林浴で深呼吸をする、食事を味わうなどですね。しかし現代人は慌ただしく、浸ることをせずに生活している。植物がじっくりと自然の恵みから栄養を取り入れるのを見ていると、私たちも本来そうあるべきだと思います」
──藤原さんは人間も「植物」のひとつだととらえられるかもしれない、と論じています。とてもスリリングな解釈だと思いました。
「もちろん、これは人間=植物だと言いたいわけではありません。私たちの身体をよく観察すると、そういう面が多々あると思う、という意味です。例えば、肺や胃や腸などを『内臓』と呼んでいますが、実は外界と接しています。口から入ってきたものが通るわけですから、“内なる外”を持っているわけです。
肺では毛細血管という根を張りめぐらして、酸素の取り込みを、赤血球中のヘモグロビンを通じて行っている。腸はもっとリアルでしょう。食べたものにいろいろな酵素をかけて、いわば土のようなものを作るわけです。それを体内に溜めている間に、栄養を吸い取るんです。
結局、植物も人間も、土のようなものから微生物の力を借りて栄養を吸い取ることをしている。ここだけを見れば、私たちは、動く植物だと考えることもできなくはない。人間は大地の恵みを直接には吸い取れないので、植物のほうがショートカットができているので効率的かもしれません」
「植物の根はアンパンマン的」知られざる土壌内の世界
──藤原さんが植物で特に好きな部位はどこでしょう?
「僕はお花を買うときは“きれいだな”と思うし、育てているレタスを見ているときは、“葉っぱがおいしそうだな”と思うし、お米というイネの種子を食べるときには、“香ばしくてうまいな”と感じるんですが、今回書いていて思ったのは、根が面白いなと。見えないところに人の本質が出るといいますが、それは植物も同じだと思ったんですね」
──根の魅力とは何でしょう?
「ひと言で言うなら、生き物と共生することです。自分の光合成したでんぷんを無償で放出して、土に住まわせて微生物を寄ってこさせる。それからセンサーを持っていて、細かい根が土の中をまさぐって連携プレーをする。根毛は単細胞なので短い期間で死ぬんですが、それは土の中の生き物の餌(えさ)になる。だから、根はいわば“アンパンマン的”なんですよ。“自分を食べて”と言ってみんなを集めて、にぎやかな地下世界を作り上げている。その土壌内の世界の豊穣さを、私たちはもっと知るべきだと思います」
現代人は“待つ”ことを忘れすぎている
──他に現代人が植物から学ぶべきことはありますか?
「待つ、ということです。私たちはいろいろな場面で待つことを忘れすぎてはいないでしょうか。何でもこちらから追いかけすぎて、息が切れて疲れることが多い。例えば、本を読んだらじっくり寝かせて、頭の中で考えが出てくるまで待つ、という行為よりも、次々に押し寄せる映像を確認して終わる。人と話すときには、ゆっくりと耳を傾けるのではなく、言葉尻をつかまえて表層的に議論を処理する。そうではなくて、太陽が出てこなかったら、電気で人工太陽を作るのではなく、出てくるまで工夫して待つ、とか、水不足であるならば、ペットボトルを大量生産して用意するのではなく、環境破壊しない程度の水の利用の仕方を考える、とか。
そんな風に、自分の背丈に合った、人と自然、人と人との間の取り方を考えないといけない。現在、科学者から提供されているデータを信じるならば地球の環境は限界まで破壊されているので、もう一度、植物から真剣に学ばないといけないでしょう」
──巻末では「植物について考えることは、初めて会った人なのに昔から知っている気がすると錯覚する、あの感覚に似ている」とありました。
「初めて会った人だけれど、昔どこかで話したことがある気がすることはないでしょうか。“ご縁”という言葉でしか言い表せないことがあると思います。同じように、実は私たち人間と植物は、大昔には共通の祖先を持っている。それが分化したものとして、私たちは存在している。だから植物を観察していると、人間の中にある植物性のようなものとの対話が始まるのではないでしょうか。植物を見れば見るほど、懐かしさを感じる。そして、その中に自分を発見して、ドキッとすることがあります」
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めくるめく植物の世界。植物について思いを巡らせることは、藤原さんが言うように、私たち自身のあり方、生き方自体を考えることにもつながるのでしょう。これを機に、文明の力にすべてを委ねてあくせくと過ごす毎日を、見つめ直してみるのもいいのかもしれません。
(取材・文/篠原諄也)
【PROFILE】
藤原辰史(ふじはら・たつし) ◎1976年生まれ。2002年、京都大学人間・環境学研究科中途退学。同年、京都大学人文科学研究所助手、東京大学農学生命科学研究科講師を経て、2021年4月から京都大学人文科学研究所准教授。専門は農業史、食の思想史。主な著作に『ナチスのキッチン』(決定版=共和国、河合隼雄学芸賞)、『分解の哲学』(青土社、サントリー学芸賞)、『給食の歴史』(岩波新書、辻静雄食文化賞)、『縁食論』(ミシマ社)、『農の原理の史的研究』(創元社)、『中学生から知りたいウクライナのこと』(ミシマ社、小山哲と共著)など。