2023年1月28日・29日に大阪、31日に福岡で舞台『マヌエラ』が上演される(東京公演は1月15日〜23日で終了)。主演は元宝塚歌劇団月組トップスターの珠城りょうさん。戦時中の上海で日本人という出自を隠し、ダンサー「マヌエラ」として活躍した実在の女性、和田妙子の生涯をモデルにした物語だ。
舞台上と同じくらい、実在のマヌエラも波乱の生涯を送った。戦前そして戦中、戦後復興という混沌とした時代を生き抜いた女性の実像とは──。
SKDに入団、最初の芸名は「水の江たき子」
舞台『マヌエラ』の主人公・永末妙子はレビュー劇団のSKD(松竹歌劇団)で将来を期待されたスターだったが上海に駆け落ち。日本人であることを隠し、国籍不明のダンサーとして上海の租界(※)でスターになる。
※アヘン戦争後の不平等条約によって、中国の各都市に作られた欧米諸国や日本などの外国人居留地。
マヌエラの周囲には、国籍を問わず男たちが集まる。海軍中尉の和田忠七(渡辺大さん)、振付師のパスコラ(パックンさん)、上海マフィアのボスの杜月笙(岡田亮輔さん)、ダンサーのチェン(宮崎秋人さん)、怪しい貿易商の村岡(宮川浩さん)。太平洋戦争前夜、退廃的な魅力を放つ上海でうごめく人間ドラマが繰り広げられていく。
史実の「マヌエラ」こと和田妙子の前半生もおおむね舞台で描かれたものに近いが、より数奇かつたくましい。
1911年12月21日、当時日本領の朝鮮・鎮海浦で山田妙子として生まれる。自伝で始終「お転婆だった」と回顧する彼女は’28年に東京松竹楽劇部──のちの松竹歌劇団第1期生として入団。妙子とダンスの本格的な出合いになった。
著書『上海ラプソディー -伝説の舞姫マヌエラ自伝-』などによると、入団時に最初にもらった芸名は「水の江たき子」。しかし、この芸名がしっくりこないので同期の「東路道代」なる芸名の団員と交換し「東路道代」として松竹の舞台に立つ。一方、芸名を交換した団員こそが、SKDの大スターにして男装の麗人、ターキーこと若き日の水の江瀧子だった。このことは水の江瀧子のほうでも自伝『ひまわり婆っちゃま』で触れている。
後に東京きってのレビュー劇団に成長するSKDの1期生になったはずが、草創期のSKDはあくまで大阪の松竹楽劇部(こちらは解散、再結成を経て現・OSK日本歌劇団となる)の脇役扱い。東路道代には大きな役もつかない中、ダンス講師の永井三郎(本名:永末柳二)と親密な関係になり、わずか1年で退団。退団後すぐに永末と結婚し、17歳で妻になった。
恋多き20代、大連から上海へ
ところが、新婚の夫はほどなくして急死。妙子は人気の女性奇術師・松旭斎天勝一座のステージに出演したり、ダンスを習う日々。しかし、このころ河上鈴子というプロの女性舞踏家に師事してスパニッシュダンスを踊っていたことが、上海で異国人たちの視線を惹きつける下地になる。
「上海を魅了したマヌエラのダンスはフロアダンスで、レビューのように舞台上で見せるものとは違います。フロアで踊るスパニッシュダンスを会得したことで、エキゾチックなダンサーとして開花する土台になったのかもしれません」(昭和芸能史が専門の作家・小針侑起さん)
妙子自身も、日本人に見られないこともあった自身の容貌には情熱的なスパニッシュが合っていたかもしれないと述懐している。おかげで得意な楽曲は社交ダンスの定番曲のひとつ『エスパーニャ・カーニ』だった。
20代にして異性関係も苦労が多かった。出入りしていたクラブで知り合ったジャズ歌手のリキー宮川と事実婚の状態に。しかし宮川の女性関係が原因ですぐに夫婦仲は疎遠に。天勝一座の舞台や踊りの仕事で糊口をしのいでいた’37年、破綻した夫婦関係から外国人の男と大連に駆け落ち、そこで「姦通罪」の容疑で官憲に拘束される(当時、妻が不貞を働いたときにのみ成立する刑法罪が存在した)。
なんとか疑いは晴れたものの、日本に帰りづらくなった妙子は上海へ。米英仏の列強が租界を構えていた上海は、大連よりも華やかで東洋一流のミュージシャンや踊り子たちがそろっていた。
旅費や衣装代を前借りし、その日暮らしの生活を送る──給料の前払いを意味する「advance」から転じて「バンス」と自称した芸人やバンドマン、ダンサーたち。後年、斎藤憐の戯曲『上海バンスキング』で描かれた上海の芸能界に妙子も飛び込んだ。
世は盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争が勃発した年である。初めは「沖マヤ」の芸名で踊っていた妙子だが、ハロルド・ミルズという米国人との出会いから「マヌエラ」が生まれる。
日本のマタ・ハリ? 2つの国からかけられたスパイ容疑
ミルズの表向きの仕事はジャーナリストだが、実質的な妙子のマネージャーでもあった。舞台ではパックンさんが演じている、ムーラン・ルージュの元ダンサーのパスコラをダンス教師として紹介したのもミルズだったが、彼が用意したのが、
《ハワイ・ホノルルに生まれ、10歳で初舞台を踏む。その後、インドのボンベイ(編集部注・現在のムンバイ)のオリエンタルダンサー・ランボヤに師事し、妖艶なダンスで喝采を浴びた唯一無二のダンサー、ミス・マヌエラ》
という架空のプロフィール。芸名のマヌエラもダンスの楽曲『マヌエラ・デル・リオ』からの引用。この経歴をひっさげ、官能的なスパニッシュダンスでフランス租界に住み、欧米人も魅了する。十八番の楽曲のひとつ『ペルシアンマーケット』を踊るマヌエラの写真が上海市内・南京路の朝鮮銀行に掲げられ、どのクラブでもマヌエラが訪れただけでバンドは『ペルシアンマーケット』を演奏したという伝説も生まれた。
わざと日本人であることを隠し、国籍不明のダンサーとして売り出す。出自を偽るのは山口淑子(中国人「李香蘭」として女優デビュー)の例を見ても当時珍しいことではなく、戦時中でもジャズが流行し、列強と中国の富が集まった多国籍都市・上海ではむしろそのほうが彼女の魅力を引き立てた。
エキゾチックなダンサーとしてのマヌエラ像は多分に西洋から東洋への人種的偏見も混じったものであったが、妙子本人が培ってきたダンスと人生があってこそ、後世になっても伝説的な生涯として記録されたのだろう。
マヌエラの評判に、米国・ユニバーサル映画の重役から上海で直々にスカウトされ、いったんは渡米を決めて船の手配までしたところに、1941年12月8日、日米が太平洋戦争に突入。ハリウッドスターへの道は幻と消えた。
ところが、日米開戦の余波で憲兵隊にスパイ容疑をかけられる。後年に雑誌『BRUTUS』(1982年9月号)の取材に応じた際、当時のことをこう回想している。
「戦争が始まって2週間くらいしたら、ある日憲兵が来てね、憲兵隊に引っ張られたの。私がスパイだと思ったのね。で、その取り調べがもうすごくって、私、殺されちゃうと思ったから、勘当の身だったけど、父のことを言ったのよ。杉山大将(太平洋戦争開戦時の参謀総長・杉山元)が父の兄さんの無二の親友だったの。そうしたら運よく杉山さんがいらして、“とんでもない、山田さんのお嬢さんだぞ”っていうことになって、すぐに出されたの」
米国人のミルズがマネージャーだったことも心証を悪くし疑いをかけられたが、陸軍の大物・杉山元と父親の縁で難を逃れたという出来事だった。
1943年、踊るマヌエラの前に現れたのが和田忠七という日本人で、彼女の3人目の夫になる。舞台『マヌエラ』では渡辺大さんが演じる海軍中尉という設定のこの人物、表向きは実業家であるが、妙子によれば最初は陸軍の軍服を着てやってきたという、軍との非公式なコネクションも持った人物で既婚者であった。この和田が粘り強くマヌエラのもとに詣で続け、敗戦・帰国ののちも彼女のパートナーとなって正式に夫婦になった。
’45年8月、日本がポツダム宣言を受諾。すると今度は連合国から日本のスパイ容疑をかけられたという。
「アメリカに引っ張られたのよ、そのときに私を調べた人は、私をてっきり“日本のマタ・ハリ(※)”だと思ったの。投書がずいぶん行ったんですって。女王様みたいな暮らしをしてお金が有り余っているって。私アタマに来てね。戦争が始まればアメリカのスパイだろって憲兵隊に言われ、すんだら今度は日本のスパイだなんて。あんたたちいったい何してんのって言ってやったの」(『BRUTUS』1982年9月1日号)
※パリの有名キャバレー「ムーラン・ルージュ」の人気ダンサー。第一次世界大戦中にスパイ容疑でフランス軍に捕えられ処刑された。
小説に、舞台に。数奇な人生が平和な時代に脚光を
罪の疑いが晴れて1946年に和田とともに帰国した妙子は、’47年に早くも銀座で喫茶店「モレナ」を開業。’52年からは内幸町でナイトクラブ「マヌエラ」を経営し、現役のダンサーとしてフロアでも踊った。
まだ日本が敗戦の痛手から癒えない時代ながら、クラブ「マヌエラ」は文化人や芸能人の社交場に。開業イベントの司会を務めたのはE・H・エリック。故・岡田眞澄さんの兄で、弟とともに司会や俳優で活躍した人物だ。
「マヌエラ」のステージにはコメディアンのトニー谷も立ち、クラブは生演奏のバンドを抱えてジャズマンを輩出。戦後を代表するジャズバンドの『ブルーコーツ』もここで演奏し、三島由紀夫、犬養健ら文化人たちの隠れた遊び場になっていた。
数奇な妙子の人生にスポットが当たり始めるのは、日本が安定して豊かな時代を迎えてから。作家の西木正明さんが戦時中のマヌエラと和田をモデルに書き上げた小説『ルーズベルトの刺客』(1991年)が生まれ、‘99年1月には天海祐希さんの主演で舞台『マヌエラ』が上演。
戦時中の上海を知る生き証人として、平成以降もメディアに登場していた。2001年には90歳目前にして『上海ラプソディー -伝説の舞姫マヌエラ自伝-』を出版、’02年には『徹子の部屋』にも出演する。自身と同じく芸能界を生き抜いてきた黒柳徹子さんと上海での思い出や、晩年になって日本舞踊を習い始めたという矍鑠(かくしゃく)ぶりで話に花を咲かせていた。
‘07年9月18日、95歳で永眠。夫の和田忠七とともに多磨霊園に眠っている。最晩年は雑誌『編集会議』(2001年8月号)のインタビューで人生を振り返ってこう答えていた。
「私は『I try my best』で生きてきましたからね。お天気は、いつまでも雨が続くわけじゃない。一番どん底にいても、太陽が燦々と照るときがくる。それが私の信条です。踊っていれば、必ず救われてきました。後悔することがない、本当に幸せな人生でしたね」
異国でダンサーとして身を立てて戦争を生き抜き、晩年もポジティブに後悔しない人生を送った。生涯を通じて放たれた強いエネルギーは、現代日本人にとっても鮮烈に映っている。
(取材・文/大宮高史)