新型コロナウイルスの感染が急速に拡大していった2020年7月7日、小さな出版社が誕生しました。その名は「水鈴社(すいりんしゃ)」。代表の篠原一朗さん(以下、篠原さん)が、会社唯一の編集者でもあります。
篠原さんは、出版業界でいま注目されている編集者の一人。11年間勤務した出版社の幻冬舎では、『新13歳のハローワーク』(村上龍)や『希望の地図』(重松清)などの編集を担当し、雑誌『papyrus(パピルス)』の編集長も務めていました。
その後、移籍した文藝春秋には7年在籍。RADWIMPS・野田洋次郎さんのエッセイ『ラリルレ論』、クリープハイプ・尾崎世界観さんの初小説『祐介』、SEKAI NO OWARIのSaoriこと藤崎彩織さんが執筆し直木賞候補になった『ふたご』など、人気ミュージシャンによる小説やエッセイの編集を手がけてヒットを飛ばしました。
また、映画化も話題になった『永い言い訳』(西川美和)、それぞれ本屋大賞を受賞し累計100万部を突破した『羊と鋼の森』(宮下奈都)、『そして、バトンは渡された』(瀬尾まいこ)など、多くの話題作を世に送り出しました。
本との出会いによって見えてきたその後の道
そんな篠原さんが本を好きになったのは、家族の仕事の都合で、スリランカで暮らしていた小学生のころにまでさかのぼります。
「同級生が5人くらいしかいなくて、治安がよくなくて外出禁止令もしょっちゅう出ていたから外にも行けないし、家で本や漫画を読むことが多かったんです。家にあった椋鳩十(むくはとじゅう)(※1)の小説や、たまたま家にあった『美味しんぼ』(小学館)などを読んでいたのを覚えています。他には『海辺のずかん』(福音館書店)という絵本が大好きで、ずっと眺めていました。この本に載っている魚をとるための仕掛けを作って、父親と海に行ったりしていました。今も魚を釣ったり、飼ったりするのが好きなのですが、それはこのときの影響が大きいと思います。本と魚が好きな子どもが、大人になってもそのまま変わらなかった、みたいな」
※1:小説家。児童文学を多く手がける。童話『大造じいさんとガン』は、国語教科書(小学校5年生)の共通教材にもなっている。
幼少期から本が好きだったことに加え、大学時代に、小さなころから憧れていた椎名誠さんの事務所でアルバイトしていたときに、“作家の伴走者として本を作る”編集という仕事への思いが高まっていきました。しかし、新卒で受けた出版社は全滅し、大手ゼネコンに就職します。
「半ばコネのような形で入れていただいたのですが、すごく大きくていい会社だったので、本を読むのは趣味にして、楽に生きていこうなんて思っていました。でも考えが甘くて、仕事は全然楽じゃなかった。本を読む暇もなく、どうせこんなに大変なら、好きなことで大変な思いをしたいと思ったんです」
そう考えた篠原さんは2年でゼネコンを辞め、幻冬舎のアルバイトとして働き始めることに。
「親には“育て方を間違えた”と言われ、人事部には、“お前にいくらかかったと思ってるんだ”と言われました(笑)。多くの方にご迷惑をおかけして、今になれば申し訳ない気持ちでいっぱいですが、出版社でアルバイトできることが決まっていたので、辞める不安よりも楽しみな気持ちのほうがずっと大きくて」
憧れの背中を追いかけてつかんだチャンス
安定した大企業から飛び込んだ幻冬舎は、学歴や立場は関係なしに、とにかくなんでもやらせてくれる出版社だったという篠原さん。「アルバイトとして入ってすぐに『13歳のハローワーク』(村上龍)のプロジェクトに駆り出されました。当時、新卒採用をしていなかった幻冬舎は、アルバイトでも“使えそう”と判断したらどんどん仕事を任せてくれました」と振り返ります。
「すごくチャンスを与えてくれる会社でした。アルバイトでも名刺を持たせてくれて誰にでも会いに行けたし、文芸や児童書などジャンル関係なしに本を作らせてくれた。利益さえ出ていれば、基本的には何をやっても許してもらえました。僕が編集者として独り立ちできたのは、最初に働いたのが幻冬舎だったから。見城さん(※2)みたいな刺激的な編集者はいないと今でも思っているし、今でも、見城さんの背中を見てしまうことがあります」
※2:株式会社幻冬舎・代表取締役社長の見城徹氏。
自分をゼロから育ててくれ、自由な環境にあった幻冬舎でしたが、篠原さんは11年目に辞める決断をします。
「ずっと幻冬舎で編集をやっていくのだろうと思っていました。でも、仕事に疲れていたり親しい先輩が退社したりということもあって、いろいろ悩むことが多くなり、ご縁に身を委ねて環境を変えてみることにしたんです。でも、後になって考えれば全部言い訳なんですよね。僕はあのとき、逃げたんだろうと思います」
“逃げた”先で見つけた自分だけの強み
篠原さんが“逃げた”先は、文藝春秋でした。文藝春秋は、創業者の菊池寛が直木賞と芥川賞を創設した、文芸出版の横綱ともいえる出版社。篠原さんはここで、文芸編集者としてきちんと仕事に向き合ってみたいと考えました。
「いざ文藝春秋に入ってみたら、皆さんすごく優秀で、穏やかな会社でした。でも、“その居心地のよさに甘んじていたら、移籍した意味がない”と思いました。それなら“文藝春秋の編集者がやっていないことをやろう”と思ったんです」
ちょうどそのころ、RADWINPSの野田洋次郎さんから「日記書いてみたんだけど、読んでみてくれない?」と渡されたという篠原さん。それが野田さんの初エッセイ『ラリルレ論』へとつながりました。この本のヒットを皮切りに、その後の活躍は冒頭にも記したとおりで、ミュージシャンの言葉の才能を見抜いて小説を依頼するなど、仕事の幅をどんどん広げていきました。
「とはいえ、“有名なミュージシャンに声をかければいい”というものではありません。天の邪鬼なところがあって、少しこじらせているくらいの人の方が文章を書くのに向いているんじゃないかと思います。僕は横でサジェスチョン(助言)を与えることはできても、書くのは本人。野田さんはもちろん、尾崎世界観さんも、藤崎彩織さんもすごい才能の持ち主でしたから」
文藝春秋で数々の本を手がけ、着実に実績を積み重ねていった篠原さんですが、自分の好きな本だけをワガママに作っていきたい、という思いが次第に募るようになります。
「文藝春秋が嫌になったわけじゃなくて、むしろ今でも大好きな会社。でも、会社にいる限り異動はつきものです。自分で決められる権限はほしかったけど、現場から離れた管理職にはなりたくない。自分にとっては“会社に残る方がリスクなんじゃないか”と思うようになったんです」
こうして、「自分で出版社をやろう」という考えが頭に浮かぶようになりました。とはいえ、編集畑一本で来た篠原さんにとって、取次(※3)との交渉や販売、営業などは専門外で、自分でやるのは難しい。そこで思い至ったのは、篠原さんが独立して出版社を作り、文藝春秋にパートナーになってもらうということでした。
※3:出版社と書店の間をつなぐ卸売業者
「まずは直属の上司に相談して、話を上層部に上げていただきました。当時の営業局長だった方が、“流通代行をビジネスとしてやっていくべき”という考えを持ってくださっていたこともあり、話し合いは比較的スムーズだったと思います。水鈴社が刊行した作品を文庫化するときには、著者の許諾を得て文春文庫にファーストルック権(※4)をお渡しするなど、文藝春秋とウィンウィンな関係になることを意識しています」
※4:企画段階から優先的に見ることができる契約
YOASOBIチームと描く新しい才能の発掘
こうして2020年7月に水鈴社が誕生しました。設立から3年目に入る今年7月までに刊行したのは5冊。瀬尾まいこさんの『夜明けのすべて』を皮切りに、注目作を刊行し続けています。中でも今年2月に刊行した『はじめての』は、島本理生さん、辻村深月さん、宮部みゆきさん、森絵都さんという4人の直木賞作家が、“小説を音楽にする”ユニットYOASOBIとコラボレーションし、小説、音楽、映像など、さまざまなジャンルで作品を展開しながら物語世界を創りあげていく壮大なプロジェクトとあって、注目を集めました。
「『はじめて○○したときに読む物語』がテーマのアンソロジー小説です。現代日本を代表するような人気作家が描く物語が、YOASOBIによって楽曲化されています。これまでに島本理生さんの短編『私だけの所有者』を原作とした楽曲『ミスター』と、森絵都さんの『ヒカリノタネ』を原作とした『好きだ』の2曲がリリースされました。
“いい本なのに売れない”といった話はよく聞きますが、“いい本を作ってさえいればいい”というのは甘えだと思うんです。実際のところ小説はなかなか売れないし、苦しいです。でも、僕は小説が好きだし、これからも作り続けたい。だったら、“ちゃんとそれが読者に届く仕組みを作らなくてはいけない”と考えていて。YOASOBIチームの皆さんとは、志を同じにしていると思っています」
『はじめての』プロジェクトがきっかけで、“『はじめての』プログラム”という新たなプロジェクトが立ち上がりました。水鈴社と、YOASOBIが所属するソニー・ミュージックエンタテインメントが出版と音楽という業界を横断し、新人作家を発掘し、育成することになったのです。
「水鈴社を設立してから2年は、会社に体力も知名度もなかったので、売れる本、話題になる本を意識して作ってきました。でも、3年目以降は新人の輩出にも力を入れて、出版業界を盛り上げていきたいと思っています。このプログラムで募集するのは小説のあらすじと冒頭部分のみ。有望な新人と切磋琢磨しながら、編集者として執筆をサポートします。完成した小説は水鈴社から単行本として刊行し、YOASOBIによる楽曲化を含むメディアミックスを模索していきます」
世の中には、小説や音楽だけでなく、さまざまなコンテンツがあふれています。TikTokやTwitterなどのSNSに触れる時間も長く、1日24時間という、人々に平等に与えられた時間の奪い合いが常に行われているような状況です。それでも、篠原さんは自分が好きだと思った人と組み、好きな本を作り、届ける仕組みを考えながら走り続けています。
「僕だって本ばかり読んでいるわけじゃなくて、漫画も映画も好きだし、LINEやTwitterもしているし、他のコンテンツを目の敵にしているわけではありません。『はじめての』はよく売れてくれていますが、SNSの閲覧数や漫画の発行部数には到底かないません。それでも小説にしかない面白さがあると思っていて、小説がたくさん読まれる世界のほうが豊かだと思ってもいます。目の前のことを全力でやりながら、新たな才能とのご縁も求めていきたいです」
篠原さんの、“ここが気になる”聞いてみた!
■社名の由来は?
ちょっと後付けになりますが、透き通った水のような気持ちや心地よさが、作品を通して鈴の音のように広がっていけばいいなと。また、水鈴社は時代に即して水のように自由に形をかえていける会社であれたらと思っています。現時点で編集者は僕ひとりだけですけど、プロモーション担当やSNS担当など、業務提携してもらっているスタッフは複数人いて、文藝春秋の営業部の方々にも変わらずお世話になっています。ようやく出版社らしくなってきた気がしているところです。
■好きな書店は?
行きつけの書店というのは、これといってありません。でも、『はじめての』プロジェクトを発表時から応援してくださった書店さんには特に感謝しています。いま注目しているのは、2021年8月に福岡県八女市にオープンした『うなぎBOOKS』さん。お世話になっている本間悠(ほんまはるか)さんという名物書店員さんがいて、本間さんに会いにこの書店に行ってみたいです。
■手元にあって何度も読む本は?
やっぱりスリランカで過ごしていたころに読んだ『海辺のずかん』。幻冬舎時代に、著者である自然絵本作家の松岡達英さんに依頼をして、『昆虫の生活』という絵本を作りました。椎名誠さんに推薦文を書いていただくことができて、編集者冥利(みょうり)に尽きると思いました。
(取材・文/吉川明子、編集/本間美帆)
【PROFILE】 篠原一朗(しのはら・いちろう) 1978年、東京都生まれ。小学校時代をスリランカで過ごす。25歳の時にアルバイトで幻冬舎に入り、『ランナー』(あさのあつこ)、『黒の狩人』(大沢在昌)、『新13歳のハローワーク』(村上龍)、『希望の地図』(重松清)などを担当し、雑誌『papyrus(パピルス)』の編集長も務める。2014年から文藝春秋に移籍し、『ラリルレ論』(野田洋次郎)、『羊と鋼の森』(宮下奈都)、『祐介』(尾崎世界観)、『ふたご』(藤崎彩織)、『そして、バトンは渡された』(瀬尾まいこ)などを担当。2020年7月に水鈴社を設立し、『夜明けのすべて』(瀬尾まいこ)、『Mr.Children 道標の歌』(小貫信昭)、『ねじねじ録』(藤崎彩織)などを出版。編集以外では、魚を釣ることと飼うこと、植物を育てることが得意。
Twitter→@SUIRINSHA、Instagram→@suirinsha